女性の発達臨床とジェンダー・ケアの倫理

女性の精神発達とライフイベントの個別化

臨床心理学の精神発達理論で最も良く知られたものに、E.H.エリクソン(1902-1994)の心理社会的発達論(ライフサイクル論)があるが、この発達理論(漸成発達図式)は自我と社会環境との相互関係を前提にして『発達段階』『発達課題』を定義したものである。E.H.エリクソンの心理社会的発達論の『漸成発達(epigenesis)』というのは、『前段階の発達段階を達成してから次の発達段階に成長していく(発達段階を飛び越すことはできない)』という意味合いである。エリクソンは8段階の発達段階を仮定して『誕生』から『死』まで発達が続くという『生涯発達論(ライフサイクル論)』の立場を取ったが、青年期の発達課題である『自己アイデンティティの確立』について男性・女性の性差を殆ど意識していない。

『家族関係からの自立』『異性愛の性的成熟(性器性愛)』を発達の目標とするジークムント・フロイトの性的精神発達理論は男性中心主義に偏っているが、E.H.エリクソンの心理社会的発達論(ライフサイクル論)も『分離-自立の男性的課題』に偏っていて『ケア-愛情(相互依存)の女性的課題』が軽視されているという特徴を持っている。

臨床心理学や精神分析の発達心理学では伝統的な男性性のジェンダーの影響を強く受けており、自分ひとりでできることを増やしていくという『個人の自立性・有能性』に発達の力点が置かれているが、人間の健全な精神発達のためには他者とコミュニケートしてできることを増やしていくという『コミュニケーションを通した関係性の調整・他者との協調性(親密性)』も重要になってくる。つまり、従来の男性主義的な精神発達論では『個人としての自立・強さの増大』に対置される『健全な相互依存・弱さの補助』が軽視され過ぎており、健全な相互依存や他者(家族)のケア、心理的な援助といった役割が副次的な発達課題(社会的役割)として女性性のジェンダーに押し付けられてきたという背景がある。

E.H.エリクソンの心理社会的発達論は、以下のような『発達段階・発達課題・獲得される心理機能』を定義していますが、伝統的な社会規範や文化慣習、役割行動として『女性ジェンダー(女性性)』に分類されてきた『他者との関係性の調整・他者のケアや援助・コミュニケーションによる問題解決』といった現実的な関係性(相互支援的な人間関係)を中心とする発達課題の視点が抜け落ちている。『対人関係の中で生きる自己』という現実的な要素を発達理論に取り入れると共に、従来的な『男性らしさ・女性らしさ』というジェンダー(社会的性差)に規定される性別役割分担にとらわれ過ぎずに、『統合的な自立・依存のバランス』を考慮した発達課題を定義していく必要があるだろう。

人生の発達課題として最も重要性の高い『自己アイデンティティの確立』は、『この世界における自分とは何ものであるか?どんな役割や目的を持っているのか?』という問いに対する自己認識のことであり、『連続性・一貫性・他者の認識・社会的役割・集団規範性』などによって自己アイデンティティが規定されてくる。自己アイデンティティの確立とは『~としての自分』という安定した自己認識(自己同一性)を獲得することであるが、自分が社会的・実存的にどのような存在であるかを定義していく自己アイデンティティには『個人の信念・目標・選好・価値観』だけではなくて『社会集団の規範性・役割期待・ジェンダー・権威』などが影響している。

自己アイデンティティを確立するためには一定の社会的役割を自己選択しなければならないが、青年期にある人間はどのような役割や責任を選択すべきかで悩むことが多く、自己の社会的役割を選択するまでの猶予期間のことを『モラトリアム』と呼ぶ。女性の場合には社会規範や役割期待、伝統的慣習といった側面から、女性ジェンダーと結びついた『結婚・出産の選択』について悩む割合が男性よりも大きく、『妻としての自分・母親としての自分・家族のケアをする自分・職業人(会社員)としての自分』といった多重役割を選択することで心理的・体力的負担が大きくなってしまいやすい。日本では夫の家事の手伝いや育児に対する関心・支援の比率が小さいと言われるが、男女共働きの世帯が増えてきて『女性の多重役割負担の問題』が大きくなっていることを考えると、夫(男性)と妻(女性)の『家事・育児の公正な納得のいく役割分担』がより強く求められるようになっていると言えるだろう。

エリクソンの精神発達理論と関係性の視点
発達段階発達課題獲得される心理機能他者との関係性における発達課題
乳児期(0~1歳半頃)基本的信頼感・基本的不信感自己肯定感・希望一方的な依存による自己価値観の獲得
幼児期前期(1歳半~3歳頃)自律性・恥と疑惑意志力他者の自律性の受容
幼児期後期・遊戯期(3歳~6歳頃)積極性(自主性)・罪悪感目的意識・挑戦意欲ギブアンドテイクの相互依存性
児童期(6歳~13歳頃)勤勉性・劣等感自己効力感・向上心自他の対等性と尊厳の承認
青年期・思春期(13歳~20代)自己アイデンティティの確立・自己アイデンティティの拡散社会への帰属感・社会的役割の遂行能力他者との継続的な関係性の構築・コミュニケーション能力の向上
成年期前期(20代~40代)親密性・孤立幸福感・安定感につながる愛(異性)の獲得特定のパートナーの選択と親密な関係性の深化
成年期後期・壮年期(40代~50代)世代性(養育性)・停滞他者を世話して育成する保護・教育能力自分以外の他者(子ども)を本格的に保護・教育すること
老年期(60代以上)叡智・絶望人格の統合と知恵の伝達自分が人生で蓄積した経験や知識を次世代に伝達すること

男女共同参画社会が推進される現代では『結婚・妊娠出産・育児・教育・家族の世話と調整』といった女性のライフイベントやジェンダーも個別化・多様化しており、社会規範や性別役割分担に束縛されない『各家庭・各カップルごとの機能的な役割分担(公正な負担感)』が一層強く求められるようになっている。臨床心理学の精神発達論においても、従来『女性の役割・女性らしい機能』と見なされがちだった『コミュニケーションの能力・家族成員に対するケア(精神的支援)・人間関係の調整や配慮』についてより一般的な発達課題として研究調査を進めていく必要があるのではないかと思う。

女性のジェンダーとケアの社会的役割

ジェンダー(社会的性差)というのは社会的な文化・慣習・規範によって半ば無意識的に形成される『男性らしさ・女性らしさ』のことであるが、伝統的な男性ジェンダーは『分離・自立・社会的労働』と結び付けられることが多く、女性ジェンダーは『他者のケア・関係性・家庭内労働』と結び付けられることが多かった。近年は男女雇用機会均等法や女性の職業意識の変化などによって、『女性の社会進出(職業活動)』が進んでおり、夫婦共働きで子どもを育てるDEWKS(デュークス, double employed with kids)と呼ばれる核家族の形態が増えているが、女性に家事育児の全面的負担や家族内の心理的ケアを求める『社会的期待・ジェンダー観』は依然として根強く残っている。

伝統的な女性ジェンダー(社会文化的に規定される女性らしさ)は、母親には生得的な母性愛があり、母親が子どもを愛情と共感を持って育てることで『子どもの心身の健全育成』が実現できるという『母性神話・3歳児神話』とも密接に結びついている。子どもを出産して母親になればすべての女性が子どもに『無償の母性愛』を注いで愛情深い育児をすることができるというのがいわゆる『母性神話』である。

こういった母性神話は『社会文化的な理想の母親像』が投影された幻想に近いものであるが、意外に生真面目な責任感の強い母親ほど母性神話に見合った『慈悲深い完全な育児』をしようとして、精神的なプレッシャーを強く感じ追い詰められる危険があるのである。母性神話の影響が強くなり過ぎると周囲の人たちが『母性愛の篭もった安定した育児(感情的に怒ったり精神的に不安定になったりしない育児)』を当然のものとして期待するようになるので、その母親役割への社会的期待が心理的プレッシャーとなり母親の劣等コンプレックスを強化しやすくなる。『完璧な育児ができない自分はダメな母親だ』といった育児ストレスや母親としての劣等コンプレックスを強めないためには、周囲の夫・家族などが母親の育児を積極的に援助することが必要であり、『理想的な育児』と『現実的な育児』とをきちんと区別して、現実の母子関係の中で最善を尽くして育児をしていけばそれで良いという『楽観的なスタンス』を取るべきである。また、配偶者(夫)や周囲の人たちが、母親の心理的負担や育児ストレスに対する共感的理解を示すことで、母親の心理的負担が和らいで余裕のある育児をしやすくなるので、夫婦二人(家族)で協力して育児の負担を分かち合うというのが一つの目標になる。

伝統的な女性ジェンダーには、『温かい共感性・他者への配慮・他者の世話(保護)・人間関係の調整』といった他者を慈しんで守り育ててあげるといった『ケアの倫理・役割』が密接に結びついているのだが、社会的・心理的役割における男女平等の理念が普及しつつある現代では男性の側にも一定以上の『ケアの倫理・役割』が求められることになる。伝統的な家父長制に基づくジェンダーでは『男は仕事・女は家庭』といった固定観念があり、夫(男性)は外で仕事をして給料を稼いでくれば、家庭・育児のことは妻(女性)に全面的に任せておけば良いという風潮があった。しかし、女性の社会進出や男性の平均給与の低下、市場経済のグローバル化などで夫婦共働きの世帯が増えて、男女平等の観念が強まってきた現代では、そういった伝統的なジェンダーに基づく性別役割分担だけでは『家庭の正常な機能・相互依存の心理的ケアの機能』を維持することが困難になっている。

ジェンダーの自己認識は『他者との関係性・家庭での役割・社会的な役割行動・ケアや援助行動』に影響しているが、今まで女性ジェンダーと結び付けられてきた『自分の大切な他者・モノに積極的に関与して危険から守ったり世話や調整をしたりする』という『ケアの倫理』の重要性が家庭生活でも地域社会でも企業活動でも高まっているのである。男性ジェンダーは今まで『職業活動(稼得能力)・問題解決行動・個人としての自立』が強調される傾向があったが、これからの時代では、家庭維持機能・人間関係調整機能(心理的な援助機能)としての『ケア(care)の役割』を女性と共に分担していく必要性が更に高まっていくと思われる。ケアの倫理・役割は『他者の成長・自己実現』を促進するものであると同時に『他者の苦悩・問題状況』を緩和するものであり、家族関係に限らず親密な対人関係において『ケアの倫理(他者への関心・配慮・世話)』が要請される場合は非常に多いのである。他者の苦境や孤独を気遣って配慮し、他者の問題や状況に合わせた援助(世話)をするというのが『ケアの実践』となるが、男女といった性別(セックスとジェンダー)にこだわらずにケアの倫理を高めてケアの実践に努めることが、より暮らしやすくより安心できる社会基盤の構築に役立つことになるだろう。

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