べムの自己知覚理論と認知的不協和理論

私たちは自分の心理状態(感情・態度・判断)を、自分自身の直接的な体験として即座に理解できると考えているのが普通です。『自分の気持ちは、自分が誰よりも良く分かっている』という常識的な自己理解の認識は、自分の内部で発生する感情は自分で観察したり確認する必要なく直接的な経験として与えられているという確信に基づいています。

自分の感情や態度を知る為に、私たちは無意識的に2つの手がかりを自動的に参照しています。一つは、内観的に自分の内面を感じ取るという意味での『内的な手がかり』であり、もう一つは、自分の行動や周囲の状況、他人の反応という『外的な手がかり』です。『内的な手がかり』は、自分の内面に生起する感情や変化ですから自分以外の他者がそれを窺い知ることは出来ませんが、『外的な手がかり』は、外部から観察可能な行動や表情、他者との反応ですから自分以外の他者もその手がかりを参考にしてその人の心理状態を推測することが出来ます。

心理学者のべム(D.J.Bem)は、自己の心理状態を知る時に、内的手がかりから直接的に感情を経験するよりも、外的手がかりから客観的な観察を通して知覚する場合が多いという事を指摘しました。このように『自己の内的心理』を、自己の行動や周囲の反応といった『外的手がかり』から推測して知るという考え方を、べムの自己知覚理論といいます。

べムは、内的手がかりが不十分で曖昧な社会的場面で生起する『自己の感情』を知覚する過程は、社会的場面で『他者の感情』を推測する過程と非常に似ていることを指摘しました。べムの自己知覚理論に依拠すれば、自分の気持ちは自分が一番良く分かっていて、気持ちが生じればすぐにその内容を認識することが出来るという『内的手がかりが優位に働く自己理解』は、社会的場面において必ずしも正しくないという事になります。

自分には直接的な経験として与えられていない『感情・気分・判断』というものがあり、そういった内的手がかりの乏しい内面心理について、私たちは外的手がかりから『自分の気持ち』を理解します。つまり、『他者の気持ち』を外的手がかりから推測するのとほぼ同様の推論過程を経て、『自分の気持ち』を自己知覚しているということになります。

経験主義的な認知的不協和理論を反駁する自己知覚理論

べムの自己知覚理論は、フェスティンガー(L.Festinger)カールスミス(J.M.Carlsmith)の認知的不協和を立証する『1ドルの報酬実験(1959)』の経験主義的な部分への反駁として提唱されたという歴史的経緯を持っています。

『1ドルの報酬実験』とは、面白みのない退屈な作業をさせた場合に、『1ドルの報酬を与える群・20ドルの報酬を与える群・対照群』とに分けて、その作業の面白さの度合いを質問するという実験です。退屈な単純作業をし終えた被験者は、次にその作業をする人に対して『この仕事はとても面白くてやりがいがあるよ』と実際の感想とは正反対の発言をするように強制されます。つまり、面白くない単調な作業を強制的に了承させて、『面白かった』というサクラの発言をさせられた後に、『1ドルあるいは20ドルの報酬』を受け取るという手順を踏んで、『この作業は面白かったですか?』という質問を受けるという実験になっています。

常識的に考えれば、1ドルよりも20ドルの報酬を貰った群のほうが『作業が面白かった』と回答する人の割合が多くなりそうですが、実際の実験結果は正反対の結果になりました。つまり、1ドルの報酬の群のほうが、『作業が面白かった』と答える人の割合が多かったのです。フェスティンガーとカールスミスは、20ドル報酬群の被験者は『本当は面白くない作業を面白いと強制的に言わせられる認知的不協和の状況が、20ドルの報酬で正当化された』と考え、1ドル報酬群の被験者は『本当は面白くない作業を面白いと強制的に言わせられる認知的不協和の状況を、1ドルの報酬では正当化できず、内的な認知を自己肯定的に変容させた』と考えました。

認知的不協和とは、個人の内面心理に、正反対の矛盾する認知が複数存在していて、不協和(バランスの崩壊)を起こしている不快な緊張状態のことを言います。この『1ドルの報酬実験』でいえば、『本当は面白くない作業だったという認知』『面白くないものを面白いと言わせられたという認知』が葛藤していて不快な緊張状態にあるということです。

人は『外部の環境要因』で認知的不協和の緊張を低下させられない場合には、『内部の認知要因』を変容させて認知的不協和を解消しようと無意識的に試みるとされています。この実験でいえば、外部の報酬や面白いと発言した事実は変えられないので、『全く面白くない作業だった』という自己の認知を変容させて『少しは面白い部分もある作業だった』という感想に改めたと推測されます。

人間は、金銭・財貨の報酬や他者の承認・評価という『外部要因の正当化』が十分に得られない場合には、『内部要因の正当化』によって認知的不協和を改善しようとする心理機能を生得的に持っています。そのことは、あるレベルまでの不満足(不協和)であれば、『自己肯定的な物事の認知』をして不快感を和らげることが出来るということを意味します。

べムの認知的不協和理論に対する反論のポイントは、自分自身の直接的な経験による認知的不協和だけでなく、他者の経験を間接的に観察することによってもその認知的不協和を知ることが出来るというところにありました。即ち、『感情の自己観察(直接経験と信じている感情)』『感情の他者観察(他者シミュレーション)』に本質的な違いはないということ、新行動主義のスキナーの徹底的行動主義のように『本人にしか知覚できないプライベートな心理領域はそれほど広いものではなく、観察できる行動から内面が推測可能なこと』をべムは示そうとしたと考えることが出来ます。

最も直接的でプライベートな経験であると私たちが常識的に考える『自分の内面心理・心的過程』も、実際には与えられた手がかり(外的・内的)をもとにして無意識的な推測過程を踏んで自己知覚しているという立場がべムの自己知覚理論となります。私たちは自分の内的な感情や思考のみに頼って自分の心理状態(心的過程)を自己知覚することはできないのです。

『他人は自分の鏡』や『反面教師』という格言がありますが、行動や表情、状況、情報という外的手がかりからその人の感情・心理を推測していると考えると、正に、自分であっても他人であっても同じような無意識的推測過程を踏んで内的経験を知覚している事になるのです。私たちは、内部の変化だけによって自分の感情や心理を自己知覚することは稀で、多くの場合、外部の要因(行動・状況)が内部の変化と結びつくことによって自分の心的過程を自己知覚しています。

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