権力とは何か?:紛争解決とガバナンス

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社会学における権力の定義:大文字の権力と小文字の権力

権力・法・裁判と紛争解決


社会学における権力の定義:大文字の権力と小文字の権力

権力(power)とは、一般に政治権力のように他者に何らかの行動や罰則(ペナルティ)を無理矢理にでも強制できる力を意味するが、改めて『権力の定義・根拠・作用』を考えると簡単に一義的に定義してしまうことは難しい。社会学で定説のように扱われている権力の定義としては、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(Max Weber、1864-1920)の定義した『権力とは他者の反対や抵抗(拒絶)を排除してでも、自己の意思・要求を貫徹できるあらゆる可能性である』が知られている。

社会学の権力理論では、その基本的な立場は大きく以下の3つに分類することができるが、P.M.ブラウは権力関係の基礎にあるものとして『交換可能性・交渉力の強弱』を上げている。権力は常識的に考えれば、地位・財力・情報・人脈(人的ネットワーク)・有力な家系一族などの『ソーシャル・キャピタル(社会的資源)』を多く持っている人の元に集まる特徴を持っている。

1.マックス・ヴェーバーやR.A.ダールの権力論……他者の行為を変容させられる強制力と可能性を権力として定義している。権力に向き合う個人レベルや二者関係における力関係が前提とされており、この権力の有効性は暴力(武力)による『物理的強制力』あるいは法律(規範)による『制度的強制力』によって担保されている。

2.タルコット・パーソンズの権力論……政治システムと他のシステムとの相互交換を媒介するメディアが権力であり、権力は貨幣とパラレルな社会全体のシステムを円滑に機能させるための役割を持っている。集合体の目的や安定を達成するために、権力は人々に協働的な共同行為を促進する特性がある。

3.ミシェル・フーコーの権力論……実際に監視されているか否かとは関係なく、常に誰かから監視されているかもしれないという意識を植え付ける理想の刑務所の仕組みが、ミシェル・フーコーの構想した『一望監視施設(パノプティコン)』である。近代社会の権力はパノプティコンのような『規律‐訓練システム』を通して、それぞれの個人に無意識的に社会にとって望ましい行動を強制する。

近代社会における規律・訓練システムの典型は、『学校教育・工場労働・病院』などであり、そこでは個人は権力や社会全体にとって望ましい行動(教育された規律正しい行動)を取る『規格化された部分』として振る舞うしかなくなる。社会適応を目指そうとする人々の意思や行動が、規律‐訓練システムによって作動する権力を自発的に支える構造がそこにはある。

一般的に権力というと、公権力としての正統性を備えた政治権力がイメージされやすいが、公権力・政治権力のような『大文字の権力』以外にも、個人的・私的な人間関係の中に発生する抵抗しづらい『小文字の権力』というものも存在する。

典型的な小文字の権力の現れは、現代社会で大きな問題として指摘されている『各種のハラスメント(抵抗しにくい嫌がらせ・強制)』である。パワーハラスメントやセクシャルハラスメント、アカデミックハラスメント、モラルハラスメント、アルコールハラスメント、DV(ドメスティック・バイオレンス)などが、『小文字の権力』として相対的に弱い立場・境遇にある人を精神的・経済的に追い詰めてしまうことがあるのである。

『大文字の権力』には、個人間の人権の侵害(紛争事態)を未然に抑止するために、個人の人権をある程度まで制限するという働きもあるが、各種のハラスメント行為に代表される『小文字の権力』は、職場・学校・家庭・男女関係などで相対的に弱い立場にある人の人権・自由を不正に侵害するという、好ましくない強制力の形で発揮されることも多い。

近代社会は『自由・平等な個人』によって構成されるというある種の約束事(フィクションの前提条件)によって成り立っているが、実際には平等であるはずの個人間でも『逆らえない相手・断れない状況・疑問点を質問できない相手』などが存在していて、そこに小文字の権力としての私的(関係的)な強制力が生成するのである。

権力・法・裁判と紛争解決

人々に正統性(レジテマシー)が承認されている権力の最大の役割は、『社会秩序の維持』『公正な紛争解決(紛争抑止)』であり、権力はそのために万民に等しく影響力を及ぼす法律を立法して、その法律に依拠した裁判を執行する権限を持っている。

複数の行為者あるいは複数の集団の間に『両立不可能な意思・目標・社会関係』がある時に『対立関係』が生まれる。『紛争』というのはこの両立不可能な目標を相手に受け容れさせようとして圧力を掛け、相手がその要求に抵抗(反撃)してくることによって生まれる差し迫った事態であり、『対立関係』が進行すると暴力が絡むような『紛争』になってしまうことがある。

権力・法がなければ、紛争解決の手段は話し合いのレベルで解決できなければ、『自力救済の暴力』に頼ることが多くなり、最悪の場合には自分や自集団の要求を受け容れない相手との間に『実力行使の殺し合いの事態』が発生してしまう。紛争解決(紛争処理)のモデルには、大きく分けて以下の3段階があるとされる。

1.自力救済・実力行使の紛争処理……トマス・ホッブズが社会契約論で指摘した自然状態における『万人に対する万人の闘争』のように、紛争の当事者間の実力・暴力の競い合いによって、強い者が弱い者を屈服させる形で紛争を処理しようとする。しかし、いったん敗北した者が再び力を蓄えて、報復・復讐を仕掛けてくることも多く、この紛争処理モデルは『怨恨と憎悪の連鎖(紛争の永続化)』を引き起こしやすい。

2.特定の権力者・権威者の介入による紛争処理……当該集団内において権力・権威を掌握している有力な人物に争いに介入してもらって、その権力者(権威者)の顔・名前に免じてどちらかが妥協して折れるという形の紛争処理である。争っている当事者の双方よりも、圧倒的に強くて影響力のある第三者(権力者・権威者・暴力集団など)が介入することによって、紛争を処理したり抑えこもうとしたりするが、みんなが承認している共通の規範(法)がないために、その権力者が失脚すれば再び紛争が起こりやすくなる。

3.共通の行為規範である“慣習・法”に基づく紛争処理……個人・集団が自由に変更できない共通の行為規範である『慣習』や『法』によって紛争が処理されるモデルである。ここでいう慣習や法には、当該社会の構成員が承認している『歴史性・神聖性に基づく一般的な正しさ』が宿っているとされており、暴力や脅しによってこの慣習や法を無いものにしたり、自分に都合よく捻じ曲げたりすることは通常できない。教育・常識・世論などによって、この原始的な慣習や法は再生産され維持されていくが、制度的な手続きを踏んだ法律ではない初期の集団に通用する法のことを『原始法』と呼ぶことがある。

当該集団において一般的(普遍的)な影響力を持つようになった『法』に基づく紛争処理は、なぜ暴力的な実力行使(自力救済)や特定の権力者(有力者)に頼った紛争処理よりも優れていると言えるのだろうか。その第一の理由は、実際に人間が怪我をしたり死亡したりするリスクが格段に低くなり、『法(法律)の教育・理解・納得』によって、事前に紛争や違反を抑制できる可能性が高くなるということである。

社会システム論で知られるニクラス・ルーマン(Niklas Luhmann, 1927-1998)は、法の構造化・有効化によって社会は『複雑性の縮減』『複合性の増大』という恩恵を受けられると考えた。相互に完全に自由な個人は、約束をしても相手がその約束を守るかどうか十分に予測できないという意味で『複雑性』が極めて高くなり、社会全体の安定秩序や効率的な経済活動が阻害されてしまう恐れが強くなる。しかし、社会全体に共通する法や慣習(常識)を構成員が受け容れるようになると、(犯罪者・不適応者・非常識人などを除く)ほぼすべての人が『共通の規範である法・慣習・常識に従うという予測』が働きやすくなるので、『複雑性の縮減』によって社会・経済の集団活動がスムーズに行われることになる。

『複雑性の縮減』が十分に為された文明的かつ予測可能な社会環境(人間関係)では、自分の行動や誠意(あるいは攻撃)に対して相手がどのように反応してくるかが予測できるので、双方が同じような予測と合意の元で行動することによってお互いがお互いに違背しないという『複合性の増大』のメリットが生まれるのである。

複合性の増大は、個人が安心できる選択肢を増やしてくれたり、社会活動の専門的な機能・役割の細分化を促進してくれたりする。現代社会では、インターネットを介して会ったこともない相手や店舗を持たない通販業者とモノ・サービスの売買契約を行い、クレジットカードで料金を決済したりすることは当たり前のように行われているが、これも『法の共通認識(法・商慣習に違反すればペナルティを受けるという認識)に基づく複合性の増大』の恩恵として解釈することができる。

人間社会の歴史では、『類似した構造を持つ利害対立・紛争の調停・解決』を繰り返していく中で、『紛争処理方法のパターン化(先例に基づく安定した紛争解決のための判断)』が認識されるようになり、国家のような強制力・権威を持つ組織や制度が整備されるにつれて『制度化(パターン化)された裁判による紛争解決』が紛争処理システムの中心に置かれるようになった。

国家権力・政治権力を前提とした裁判では、紛争処理のための規範である『法』は議会の議決や君主の命令、住民投票によって成立した『法律』とほぼ同義になる。現代の民主主義社会における『法』は、裁判規範として高度に体系化・組織化・判例化された『法律』としての役割が主眼になっている。裁判において裁判官・裁判員が判決を下すために依拠する成文化された法律、あるいは裁判で紛争処理の基準になっている体系化・形式化・前例化されたルールの集積とその運用が『現代の法』なのである。

現代の法やその法に基づく裁判は、社会資源を多く持っている『政治的・社会的・経済的な強者』だけの味方にはならず、『権利の請求に基づいて各種の正当性の動員をした弱者』の権利回復を図ることも多い。その意味で、近代的な裁判に基づく権利(人権)の保護・回復には、権力者やマジョリティ(多数派)の一方的な支配・横暴を抑制して、社会的弱者やマイノリティの必要限度の尊厳・利益を守ろうとする性格があり、こういった性格は近代以前の身分制社会や封建主義社会、専制主義の政治、実力主義の社会には見られなかったものである。

現代の民主主義社会では、『支配階層(政治機構)である権力者・権威者』が『被支配階層である一般国民(民衆)』を統治するという歴史的・思想的な意味合いが強い“ガバメント(政府・支配機構)”という概念が不適切であるという見方が強まっている。国民主権や地方自治を前提として、主体的な国民・市民が積極的に政治活動や政治的な利害配分に参加するという“ガバナンス(自律的な関係者参加型の統治)”の考え方のほうが有力になっており、無理矢理に上位者から強制されてしかたなく従うという政治のあり方が疑問視されるようになった。

ガバナンス(governance)『共治』と翻訳されることもあるが、『上位者からの強制による秩序形成(ガバメント型の秩序形成)』ではなく、『関係者による参加と合意による秩序形成』の必要性が強調されている。ガバナンスの概念や実践は、2000年代に入ってから急速な拡大を見せており、国際社会におけるグローバル・ガバナンス、企業経営におけるコーポレート・ガバナンス、環境問題解決のための環境ガバナンスなどの用語がマスメディアで使用されることも多くなった。

ガバメントに対抗するガバナンスの基本コンセプトは、“多元性・多様性・個別性”を持ったさまざまな利害関係者(ステークホルダー)との対話とコラボレーションを促進することによって、利害調整や規則遵守、相互配慮などにまつわる合意形成を促進していくということである。政府・官庁(権力の裏付けを持つ行政機構)のトップダウンで一方的かつ強制的に命令して従わせるというガバメントではなく、それぞれの個人が良識のある市民社会の構成員として、政治的な意思決定や利害配分の調整に積極的に関心を持って関わっていくというのがガバナンスである。

地方自治や住民参加型の政治の制度的な機会として機能しているものとして、『パブリックコメント・公聴会・審議会』などがあるが、より理想的なガバナンスのあり方として言われるのは、『できるだけ多くの利害関係者の意見を拾い集めた上での合意形成』というハードルの高い課題である。

近年では、地方自治にも関わる大型公共事業の可否に対して地域住民だけではなく国民全体の直接的な声を聞くべきだとするガバナンス的な意見も広まった。地球温暖化問題や環境問題、エネルギー問題、公害の改善のためには『政府による強制・罰則・押し付け』だけでは限界があり、市民・企業の『自発的かつ倫理的な協力行動(情報を正しく理解した上での問題解決に向けた自発的な協力行動)』を取り付けなければ環境悪化や温暖化の問題を大きく改善することができないとするガバナンスの考え方が主流になっている。

ガバナンスの有効性や現実性を高めるためには、市民の自発的かつ倫理的な協働(コラボレーション)や合意形成をどのようにしてマネジメントしていくか、ガバメントの側の『情報公開の透明度・公開範囲+市民の意思決定を受け容れて反映させる範囲』をどこまで高めていけるか、実際の政治や企業活動、社会問題にインパクトを与えるためにどのような戦略性を立案できるかが問われている。

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