『中庸』の書き下し文と現代語訳:1

儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは極端な判断を避けてその状況における最適な判断を目指す中庸(ちゅうよう)の大切さ・有利さを説いた『中庸』の解説をしています。『中庸』も『大学』と同じく、元々は大著『礼記』の中にある一篇ですが、『史記』の作者である司馬遷(しばせん)は『中庸』の作者を子思(しし)としています。

中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められている。『中庸』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていきます。

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金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『中庸』(講談社学術文庫),伊與田覺『『中庸』に学ぶ』(致知出版社)

[白文]

中庸章句序

中庸何為而作也。子思子憂道学之失其伝而作也。

[書き下し文]

中庸は何の為にして作るや。子思子(ししし)道学のその伝を失わんことを憂えて作るなり。

[現代語訳]

中庸の書物は何のために作ったのだろうか。子思先生が、(孔子の没後の儒教の学問が年月を経るに従って)その学問の本質を失うのではないかと心配して作ったのである。

[補足]

子思子というのは子思先生という意味であるが、子思は孔子の没後に儒教の学問としての本質が失われることを憂慮していた。『道学』とは、正しい道を講義する学問であり、儒教の正統性を担保した学問のことを言っている。

[白文]

蓋自上古聖神、継天立極、而道統之伝、有自来矣。

[書き下し文]

蓋し(けだし)上古(しょうこ)の聖神(せいしん)、天に継いで極を立てしより、道統(どうとう)の伝、自って(よって)来る有り。

[現代語訳]

上古の聖人が天下を統治する天子となり、天意を継承して万民の依拠すべき社会の基準(標準)を立ててから、道の系統の伝説は始まっているのである。

[補足]

『聖神』というのは堯・舜よりも更に古い時代の聖人であるが、儒教における聖人は天命を拝受することで『天子』となり、天子は天道(道統)を継承することで天下万民の依拠する基準(標準)の極を打ち立てるのである。『極』には『基準・模範』といった意味があるが、天子(皇帝)はそれぞれの時代を超えて『道統』という正しき道の系統を継承し続けていると考えられていた。

[白文]

其見於経、則允執厥中者、堯之所以授舜也。人心惟危、道心惟微、惟精惟一、允執厥中者、舜之所以授禹也。堯之一言、至矣尽矣。而舜復益之以三言者、則所以明夫堯之一言、必如是而後可庶幾也。

[書き下し文]

その経に見ゆるは、則ち允(まこと)に厥の(その)中(ちゅう)を執れとは、堯の舜に授くる所以なり。人心惟れ(これ)危うく道心(どうしん)惟れ微(び)なり、惟れ精惟れ一、允に厥の中を執れとは、舜の禹に授くる所以なり。堯の一言、至れり尽くせり。而して舜復た(また)これを益す(ます)に三言をもってするは、則ち夫の堯の一言必ず是くのごとくにして而して後に庶幾(しょき)すべきを明らかにする所以なり。

[現代語訳]

その『経書』に見えるものは、本当にその真ん中を執って失うなということ(『論語』の堯曰篇に由来する)であり、これは堯が舜に禅譲した時の訓戒である。人心は物欲に迷わされやすい危うさがあり、真の道を学ぼうとする道心は物欲に迷わされてほんのわずかなものに過ぎない。人心と道心を精密に区別し、一心に真の道を求めよ(精一の道を求めよ)。本当にその真ん中を執れというのは、舜が禹に禅譲した時の教えである。堯の放った一言は、至れり尽くせりで全てを言い当てていた。舜がまたこれに『人心・道心・精一』の三つの言葉を加えたのは、堯の真ん中を執れという『執中(しっちゅう)』の一言を実際に実現するための方法(精一)を明らかにしたものであった。

[補足]

『その中を執って失わないこと』が“執中(中庸)”であるが、古代の聖人君子である堯・舜はこの執中の教え・訓戒を次の帝王に伝えていたとされる。『人心』とは肉体を持っている人間が持つ俗欲・物欲の心であり、『道心』とは正しい道を求める心、人間が本来的に持っている道義心のことである。その中を執って失わないという『執中(中庸)』を実現するには、精密な考察と一心な集中に根ざした『精一(せいいつ)』が必要となる。

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