『中庸』の書き下し文と現代語訳:2

儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは極端な判断を避けてその状況における最適な判断を目指す中庸(ちゅうよう)の大切さ・有利さを説いた『中庸』の解説をしています。『中庸』も『大学』と同じく、元々は大著『礼記』の中にある一篇ですが、『史記』の作者である司馬遷(しばせん)は『中庸』の作者を子思(しし)としています。

中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められている。『中庸』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていきます。

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金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『中庸』(講談社学術文庫),伊與田覺『『中庸』に学ぶ』(致知出版社)

[白文]

蓋甞論之、心之虚霊知覚、一而已矣。而以為有人心道心之異者、則以其或生於形気之私、或原於性命之正、而所以為知覚者不同、是以或危殆而不安、或微妙而難見耳。

[書き下し文]

蓋し甞み(こころみ)にこれを論ぜん、心の虚霊知覚は一のみ。而して(しかして)もって人心道心(じんしんどうしん)の異(い)ありと為すは、則ちその或いは形気(けいき)の私に生じ、或いは性命(せいめい)の正(せい)に原(もと)づくをもって、知覚を為す所以の物同じからず、是をもって或いは危殆(きたい)にして安からず、或いは微妙にして見難きのみ。

[現代語訳]

思うに、試みにこれを論じてみよう、捉えどころがなく、神妙な霊力を持つ心、物事を知覚する心は、ただ一つのものである。そして、この心を人心と道心とに分けて異なったものとすることがあるが、肉体の個人的な要素や私的な欲望から生じるものを『人心』と呼んでいるのであり、天命に基づいて人間の本性の正しさに従っているものを『道心』と呼んでいるのである。人心と道心の知覚の働きは異なっているのだが、私的な欲望に基づく人心は悪ではないが、危険性を持っており落ち着くことができない。人間本性の道義的な正しさを示す道心のほうは、微妙で掴み取りにくいものであり分かりにくい。

[補足]

心は知覚で認識することができないが、人間に対する不可思議な作用と影響力を持ち、更に心そのものには外界を知覚する能力が備わっていることから、『虚霊知覚』として表現されている。人間の心のあり方を、個人的な身体・欲望に基づく『人心』と天命・人間本性に従って善を為そうとする『道心』とに分けて説明を加えている。

[白文]

然人莫不有是形、故雖上智不能無人心。亦莫不有是性、故雖下愚不能無道心。二者雑於方寸之間、而不知所以治之、則危者愈々危、微者愈々微、而天理之公、卒無以勝夫人欲之私矣。

[書き下し文]

然れども(しかれども)人是の形あらざる莫し(なし)、故に上智(じょうち)と雖も人心なき能わず。亦是の性あらざる莫し、故に下愚(かぐ)と雖も、道心なき能わず。二者方寸(ほうすん)の間に雑わって(まじわって)、これを治むる所以を知らざれば、則ち危うき者愈々(いよいよ)危うく、微なる者愈々微にして、天理の公、卒に(ついに)もって夫(か)の人欲(じんよく)の私に勝つなし。

[現代語訳]

しかし、人間にはこの物理的・身体的な形がないという人はいないから、優れた上智を備えた聖人君子であっても、私的・肉体的な欲望を伴う『人心』が全くないというわけではない。また、人間には誰でも善に向かう本性(天来の性質)が備わっているのだから、愚かな凡人であっても、天命に従って善き本性を発揮する『道心』がないというわけではない。人心と道心の二つは心の中で交じり合っており、これを正しく使い分ける方法を知らなければ、危うい人心はますます危ういものとなり、わずかな道心はますます弱々しく微妙なものとなる。天理の正しい公の道心は、ついにその私的な欲望に勝つことが出来なくなってしまう。

[補足]

人間の心には私的な『人心』と公的な『道心』が混然として入り混じっているが、その二つの心を適切に治めて使い分けることができれば、凡夫の庶民であっても人間本性を天命に従う形で正しく発揮できるようになるということを示している。天理の公道を指し示す『道心』を活用する生き方が望ましいが、人間らしい身体・知覚の欲望である『人心』があっても、それを正しくセルフコントロールすることができれば、大きな災厄・悪徳から免れることができるのである。聖人君子といえども人間である以上は私的欲望と関係する『人心』と無縁ではいられないが、聖人とはその『人心』を抑えて『道心』を発揮することができる存在なのである。

[白文]

精則察夫二者之間、而不雑也。一則守其本心之正、而不離也。従事於斯、無少間断、必使道心常為一身之主、而人心毎聴命焉、則危者安、微者著、而動静云為、自無過不及之差矣。

[書き下し文]

精(せい)は則ち夫(か)の二者の間を察して雑え(まじえ)ざるなり。一は則ちその本心の正(せい)を守って離さざるなり。事に斯(ここ)に従って少しの間断(かんだん)なく、必ず道心をして常に一身の主と為って、人心をして毎(つね)に命を聴かしむれば、則ち危うき者安く、微なる者著れて(あらわれて)、動静云為(どうせいうんい)自ら(おのずから)過不及(かふきゅう)の差無し。

[現代語訳]

精(せい)とはすなわち人心と道心の二つの間を察して、その二つを混じり合わせないものである。一(いつ)とはすなわちその本心の正しさを堅く守って離さないものである。この精一(せいいつ)の原理に従って、少しの絶え間もなく、必ず道心がいつも一身の主人となるようにして、人心がいつも道心の命令を聴くようにすれば、すなわち危うい人心も安らかになり、わずかな道心も顕著なものとして現れるようになり、人間の動静のある言動・発言は、自然に過不足のないバランスの取れたものとなる。

[補足]

私的・身体的な欲望である『人心』と天命に従って善い人間本性を発揮させる『道心』との対立を調停する原理が、ここでいう『精一(せいいつ)』である。人心と道心を混じり合わせずに、人間の本心・本性の正しさを絶えず守るように努力して、善を実践しようとする人間本性を開花させる『道心』を、いつでも我が身の主人にすることが何よりも大切であると説いている。

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