『中庸』の書き下し文と現代語訳:3

儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは極端な判断を避けてその状況における最適な判断を目指す中庸(ちゅうよう)の大切さ・有利さを説いた『中庸』の解説をしています。『中庸』も『大学』と同じく、元々は大著『礼記』の中にある一篇ですが、『史記』の作者である司馬遷(しばせん)は『中庸』の作者を子思(しし)としています。

中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められている。『中庸』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていきます。

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金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『中庸』(講談社学術文庫),伊與田覺『『中庸』に学ぶ』(致知出版社)

[白文]

夫堯・舜・禹、天下之大聖也。以天下相伝、天下之大事也。以天下之大聖、行天下之大事、而其授受之際、丁寧告戒、不過如此、則天下之理、豈有以加於此哉。

[書き下し文]

夫れ(それ)堯・舜・禹は天下の大聖(たいせい)なり。天下をもって相伝うるは天下の大事なり。天下の大聖をもって天下の大事を行いて、而してその授受の際、丁寧告戒(こっかい)此(かく)の如きに過ぎざれば、則ち天下の理、豈(あに)もって此(これ)に加うる有らん哉。

[現代語訳]

それ堯・舜・禹は天下の偉大な聖人である。天下をもって伝えてきているのは、天下の大事件である。天下の大聖人が天下の大事業を行った後に、その天下を後継者に平和的に禅譲する時、丁寧に告げて戒められたのは『(極端ではない)中を執ること』と『精一のあり方』に過ぎないのだ。そう考えると天下の公理は、(執中と精一とに尽きているので)どうしてこれに新たなものを付け加える必要などあるだろうか、いや、ない。

[補足]

古代の大聖人である堯・舜・禹も遵守した天下(天命)の公理とは何かについて語った部分である。極端な判断をせずにバランスの取れた判断をする『執中(中を執ること)』と人心・道心を適正に使い分けて徳を高める『精一』の二つが、儒教における非常に重要な君子が守るべき公理なのである。

[白文]

自是以来、聖聖相承。若成湯・文・武之為君、皐陶・伊・傅・周・召之為臣、既皆以此而接夫道統之伝。

[書き下し文]

是より以来(このかた)、聖々(せいせい)相承く(あいうく)。成湯(せいとう)・文・武の君たる、皐陶(こうよう)・伊・傅(ふ)・周・召の臣たるが若き(ごとき)、既に皆此をもって夫の(かの)道統(どうとう)の伝を接す。

[現代語訳]

堯・舜・禹が執中や精一を教え伝えてから以降、聖人が聖人の後を継いでその教えを継承してきた。商(殷)の成湯(せいとう)、周の文王・武王の如き君主がいて、皐陶・伊尹・傅説・周公・召公の如き忠節を誓う家臣がいたが、これらの聖人はみんな、あの精一・執中の教えを受けており、歴史的な道統の言い伝えを受け継いだのである。

[補足]

民衆を苦しめる悪逆無道な政治を行った暴君として知られる、夏の桀王を放伐して追放したのが、商(殷)の湯王であり湯王はその武功によって王に成ったという意味で『成湯』と呼ばれることもある。周王朝を建国した文王、善政を広めて領土を拡大した武王は、儒教において名君の代表とされる王達である。伝説の王である舜を忠実に補佐したのが皐陶、湯王を助けて夏を滅ぼす易姓革命を進めたのが伊尹、殷の中興の祖である高宗を助けたのが傅説である。周公・召公は最後まで周王を支援した忠良誠実な家臣・諸侯として知られている。

[白文]

若吾夫子、則雖不得其位、而所以継往聖、開来学、其功反有賢於堯舜者。然当是時、見而知之者、惟顔氏曾氏之傅得其宗。及曾氏之再傅、而復得夫子之孫子思。則去聖遠、而異端起矣。

[書き下し文]

吾が(わが)夫子(ふうし)の若きは則ちその位を得ずと雖も(いえども)、往聖(おうせい)を継ぎ来学を開く所以、その功(こう)反って(かえって)堯舜より賢る(まさる)者あり。然れども是の時に当たって、見てこれを知る者はただ顔氏(がんし)曾氏(そうし)の伝その宗(そう)を得たり。曾氏の再伝(さいでん)に及んで復た(また)夫子の孫子(そんし)思(し)を得たり。則ち聖を去ること遠くして異端起こる。

[現代語訳]

わたしの孔子(孔先生)のような人物は、政治的な地位・権力を得られなかったが、過去の聖人の教えを受け継いで将来の学問の道を開いたので、その功績はかえって堯・舜より勝っていると言っても良いくらいである。しかしちょうどその時に、孔子を直接に見て知っているという者は、ただ孔子の高弟である顔回・曾参の伝えている正統な儒教の教えを聞いたということなのである。曾氏の孫弟子の世代になると、また孔子の孫である子思(しし)が現れた。その時はもはや聖人の時代が遠い昔となっており、正統派に反する異端の教えが起こったのである。

[補足]

儒教の始祖である孔子を讃えた部分であるが、魯国に生まれた孔子は諸国を遍歴しながら『徳治主義・王道政治・仁義礼節の道』を説いたが、遂に政治的な宰相の地位や権力に恵まれることはなかった。孔子の後を継いで儒教の正統な思想を教えていたのは高弟の顔回・曾参であったが、時代が流れるにつれて『昔の正統な教え』は弱まっていき、遂に反正統派の儒教一派としての『異端』が生まれるようにもなったという。

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