『中庸』の書き下し文と現代語訳:5

儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは極端な判断を避けてその状況における最適な判断を目指す中庸(ちゅうよう)の大切さ・有利さを説いた『中庸』の解説をしています。『中庸』も『大学』と同じく、元々は大著『礼記』の中にある一篇ですが、『史記』の作者である司馬遷(しばせん)は『中庸』の作者を子思(しし)としています。

中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められている。『中庸』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていきます。

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金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『中庸』(講談社学術文庫),伊與田覺『『中庸』に学ぶ』(致知出版社)

[白文]

惜乎其所以為説者不伝、而凡石氏之所輯録、僅出於其門人之所記。是以大義雖明、而微言未析。至其門人所自為説、則雖頗詳尽、而多所発明、然倍其師説、而淫於老仏者亦有之矣。

[書き下し文]

惜しいかなその説を為す所以の者伝わらず、而して凡そ(およそ)石氏(せきし)の輯録(しゅうろく)する所僅かにその門人の記する所に出づ。是をもって大義明らかなりと雖も、微言(びげん)未だ析たず(わかたず)。その門人の自ら説を為す所に至っては、則ち頗る(すこぶる)詳らか(つまびらか)に尽くして発明する所多しと雖も、然れどもその師説(しせつ)に倍きて(そむきて)老仏(ろうぶつ)に淫する者亦これ有り。

[現代語訳]

惜しいことだな、程夫子の兄弟が『中庸』について説いたところが伝わっていない(程明道先生は中庸の解説書を書かず、程伊川先生は解説書を書いたが自分の意が尽くせないとして焼却してしまった)。そして石子重が集録して程先生の学説だというもの、程先生の門人達が書き残したものが、程夫子兄弟の思想として伝わった。これらによって程夫子兄弟の大まかな思想は明らかになっているが、詳細や微妙なところまでは分からないのである。程先生の門人が自分で説を立てるに当たって、とても詳細な言葉を尽くして新たに発明することが多かったが、程先生の学説に明らかに背いて老荘思想・仏教の二家の思想に溺れてしまっているようなものもいる。

[補足]

程夫子兄弟と呼ばれた『儒教の中興の祖』である程(程明道)・程頤(程伊川)の教えが、どのようにして後世に伝えられていったのかを解説した部分である。程兄弟は自分たちで『中庸解義』とでも呼ぶべき解説書を残さなかったので、彼ら兄弟の儒学の思想・学説は結局、弟子達は収録して再編制していくような形になってしまった。弟子達の多くは真面目に程先生の思想・学説を再現しようと尽力していたが、その弟子の中には明らかに程先生の教えに反して『老荘思想・仏教』の異端な学説に淫してしまう者もいたのだという。

[白文]

熹自蚤歳、即嘗受読而窃疑之。沈潜反復、蓋亦有年。一旦恍然似有得其要領者。然後乃敢会衆説、而折其衷。既為定著章句一篇、以俟後之君子。而一二同志、復取石氏書、刪其繁乱、名以輯略。且記所嘗論弁取舎之意、別為或問、以附其後。然後此書之旨、支分節解、脈絡貫通、詳略相因、巨細畢挙。而凡諸説之同異得失、亦得以曲暢旁通、而各極其趣。

[書き下し文]

熹(き)蚤歳(そうさい)より即ち嘗て(かつて)受け読みて窃か(ひそか)にこれを疑う。沈潜反復(ちんせんはんぷく)蓋し亦年あり。一旦恍然(こうぜん)としてその要領を得る者あるに似たり。然して後に乃ち(すなわち)敢えて衆説(しゅうせつ)を会(かい)してその衷(ちゅう)を析つ(わかつ)。既に為に定めて章句一篇を著して、もって後の君子を俟つ(まつ)。而して一二(いちに)の同志復(また)石氏(せきし)の書を取ってその繁乱(はんらん)を刪り(けずり)、名づくるに輯略(しゅうりゃく)をもってす。

且つ嘗て論弁取捨(ろんべんしゅしゃ)する所の意を記して、別に或問を為し、もってその後に附す。然して後この書の旨、支分節解(しぶんせっかい)、脈絡貫通(みゃくらくかんつう)、詳略相因り(しょうりゃくあいより)、巨細(こさい)畢く(ことごとく)挙ぐ。而して凡そ(およそ)諸説の同異得失(どういとくしつ)、亦もって曲暢旁通(きょくちょうぼうつう)して各々その趣きを極むることを得たり。

[現代語訳]

朱子(朱熹)は若かりし頃からこの『中庸』の書を受け継いで読んで、心密かにこれについて疑問を抱いていた。心を沈めて思いを隠しながら、繰り返しに繰り返して何年もの間この『中庸』の研究をしていた。ある日、うっとりとした恍然の心境に至り、この書物の要領を概ね得たようであった。そこで沢山の学説を集めて、そのうちのどれが正しいのかを定めた。その正しい説に従って『中庸章句』の一篇を書き著して、もってその後に君子が出現するのを待つこととした。そして、一人二人の同志たちがまた石子重の集録した『中庸』の解釈書を手にとって、その煩雑で混乱している文章を添削して、これを『輯略(しゅうりゃく)』と名づけた。

その『輯略』に自分たちがかつて、議論・弁明をしたり内容の取捨選択をした部分を記して、別に『或問(わくもん)』という書物を作ってその輯略に付け加えた。そして『中庸』の趣旨が、肢体のように分かれて骨節のように溶けて、段落や各章の区別が明らかになって分かれていき、脈絡が貫通しているように理路整然として、詳細と大略が相互に作用し合って、要点と詳細とをことごとく挙げることに成功した。そして諸説の似ている点と異なっている点、どれが的を射ているのかいないのかが明らかとなり、また詳しく記述して遍く通じているという文章を作り、それぞれの章句の趣きを極めることができたのである。

[補足]

『中庸』の説明・解釈において朱熹(朱子)が果たした功績や作業を細かくまとめた章である。従来の『中庸』の内容や解釈に若い頃から疑問を抱いていた朱子が、ある日『中庸の趣旨』を把握することに成功し、『中庸章句』という解説書を書き著すことになった。朱子の同志や弟子がさらに『輯略』や『或問』という簡潔化した解説書を作ったことで、『中庸』の段落・章句の区別が明らかとなり、理路整然とした形でその内容を理解することが可能になったのである。『詳細さ』と『大まかさ』の双方に配慮された解説書の出現によって、儒教の基本概念・根本思想を示した『中庸』がより学識者にとって身近なものになっていった。

[白文]

雖於道統之伝、不敢妄議、然初学之士、或有取焉、則亦庶乎行遠升高之一助云爾。淳煕己酉春三月、戊申、新安朱熹序。

[書き下し文]

道統(どうとう)の伝においては敢えて妄り(みだり)に議せずと雖も、然れども初学の士或いは取るあらば、則ち亦遠きに行き高きに升る(のぼる)の一助に庶からん(ちかからん)と爾か(しか)云う。淳煕(じゅんき)己酉(きゆう)春三月、戊申(ぼしん)、新安の朱熹序す(じょす)。

[現代語訳]

儒教の道統(正統な教え)については誰がこれを受け継いでいるかなどということは、敢えて妄りに議論しようとは思わないが、それでも初学者がこの『中庸章句』を手にとって学ばれるのであれば、つまり遠方に行くには近いところから始め、高い所に登るには低い所から始めるように、この書物が『遠く高い聖人の境地』に辿り付くための一助になるだろうと思うのである。淳煕己酉春三月の戊申の日、新安で朱熹がこれを序す。

[補足]

朱子学の創始者である朱熹(朱子)が、自ら書き著した『中庸章句』についての自負心を示した部分である。初学者がこの朱熹の『中庸章句』を手にとって学べば、いずれは『遠くて高い境地=聖人君子・賢者の境地』にまで辿りつける可能性があるとして、この書物を儒学を学び始める場合の基本書(正統な儒学の教えを引き継いでいる書物)として位置づけた。

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