『中庸』の書き下し文と現代語訳:6

儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは極端な判断を避けてその状況における最適な判断を目指す中庸(ちゅうよう)の大切さ・有利さを説いた『中庸』の解説をしています。『中庸』も『大学』と同じく、元々は大著『礼記』の中にある一篇ですが、『史記』の作者である司馬遷(しばせん)は『中庸』の作者を子思(しし)としています。

中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められている。『中庸』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていきます。

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金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『中庸』(講談社学術文庫),伊與田覺『『中庸』に学ぶ』(致知出版社)

[白文]

子程子曰、不偏之謂中、不易之謂庸。中者天下之正道、庸者天下之定理。此篇乃孔門伝授心法。子思恐其久而差也、故筆之於書、以授孟子。其書始言一理、中散為萬事、末復合為一理。放之則弥六合、巻之則退蔵於密。其味無窮。皆実学也。善読者、玩索而有得為、則終身用之、有不能尽者矣。

[書き下し文]

子程子(していし)曰く、偏らざるをこれ中(ちゅう)と謂い、易わらざる(かわらざる)をこれ庸(よう)と謂う。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり。この篇は乃ち(すなわち)孔門伝授の心法(しんぽう)なり。子思(しし)その久しくして差わん(たがわん)ことを恐る。故にこれを書に筆し(ひつし)もって孟子に授く。その書始めは一理を言い、中は散じて万事と為し、末は復た(また)合わして一理と為す。これを放てば則ち六合(りくごう)に弥り(わたり)、これを巻けば則ち密(みつ)に退蔵(たいぞう)す。その味わい窮まりなし。皆実学なり。善く読む者、玩索(がんさく)して得るあらば、則ち終身これを用いて尽くす能わざる者あらん。

[現代語訳]

程先生(程明道・程伊川の兄弟の先生)はおっしゃった。どちらにも偏らないことを『中』といい、長く変わらないものを『庸』という。『中』は天下が実践すべき正しい道であり、『庸』は天下が従うべき必然の定理である。この『中庸』の本は、孔子の門下が伝授してきた心に関する正しい教えである。子思はこの教えが長い時間が経つ間に、本来のものと変わってしまうことを恐れた。そのため、この教えを書き記して、弟子の孔子に授けたのである。この書物は初めに一理を説明して、半ばでは様々な分散して万事について語り、最後はまた統合して一理と為している。この書物の内容を拡散して広げれば上下左右(宇宙)のすべてに行き渡り、これを巻いてしまえば秘密の教えとなって世の中から退蔵されてしまう。その味わいには、極まるということがなく非常に深い。これはすべて、実学(実際の役に立つ学問)である。よく読む者が、この書物を熟読玩味してその真意を得たならば、生涯にわたってその真意を用いても用い尽くすことができないだろう。

[補足]

『儒教の中興の祖』として知られる程(程明道)・程頤(程伊川)の教えを伝えた章であるが、ここでは『中庸』とは何かという根本的な定義が示されている。程先生から子思、孟子へと伝えられていった『中庸』の思想とは、『中=偏らないこと』と『庸=変わらないこと』である。『中』は不偏不倚の正道であり、『庸』は万世不易の定理とされるが、『中庸』では儒教で最も重要な概念である『天命の本性』について詳細な解説が施されているのである。

[白文]

天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。

[書き下し文]

天の命ずるをこれ性と謂い、性に率う(したがう)をこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。

[現代語訳]

天(万物生成の根本原理・宇宙の主宰者)の命令するものを『性(生まれつき備わっている性質)』といい、その性に従って行うことを『道』といい、その道を修得することを『教え』というのである。

[補足]

儒教では『天命』によって世界を統治する天子が定められ、万物生成の原理原則が規定されると考えるが、その天命によって生得的な性(本性)が自ずから定められることになる。この性(生得的な特性)に逆らわずに従うことが『道(正道)』であり、この道には宇宙の森羅万象が調和している『天道』と人間社会において倫理・道徳が正しく実践されている『人道』とがある。天道と人道の双方を尊重して同時に実践できる者が聖人君子であるが、凡夫は聖人君子にはなれないがために『道』の何たるかを学んで修め続けなければならないのである。

[白文]

道也者、不可須阿臾離也。可離非道也。是故君子戒慎乎其所不睹、恐懼乎其所不聞。莫顕乎微、故君子慎其独也。

[書き下し文]

道は須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子その睹ざる(みざる)所を戒慎(かいしん)し、その聞かざる所を恐懼(きょうく)す。隠れたるより見るる(あらわるる)は莫く(なく)、微かなるより顕か(あきらか)なるは莫し、是の故に君子その独りを慎むなり。

[現代語訳]

道というのはわずかな間(しばらくの間)も離れてはいけないものである。離れられる道であれば、それは道ではないのだ。このため、まだ見ていない時に道を戒めて慎み、まだ聞いていない時に恐れて畏まるのである。道は隠れているように見えてもいずれは見えるものであり、微妙なものであってもいずれは明らかになるものであるから、君子は自分独りが知っている道についてそれを慎んで恐れるのである。

[補足]

君子が『道』に対して執るべき正しい態度について述懐した章である。君子は『道』がまだ見えていなくてもまだ聞こえていなくても、常に『道』に対して戒慎恐懼(かいしんきょうく)しているものであり、自分一人だけがその道について知ったとしてもその慎みや恐れの感情を失ってしまうことはないというのである。

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