『中庸』の書き下し文と現代語訳:7

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儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは極端な判断を避けてその状況における最適な判断を目指す中庸(ちゅうよう)の大切さ・有利さを説いた『中庸』の解説をしています。『中庸』も『大学』と同じく、元々は大著『礼記』の中にある一篇ですが、『史記』の作者である司馬遷(しばせん)は『中庸』の作者を子思(しし)としています。

中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められている。『中庸』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていきます。

参考文献
金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『中庸』(講談社学術文庫),伊與田覺『『中庸』に学ぶ』(致知出版社)

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[白文]

喜怒哀楽之未発、謂之中。発而皆中節、謂之和。中也者、天下之大本也。和也者、天下之達道也。致中和、天地位焉。萬物育焉。

[書き下し文]

喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆節(せつ)に中る(あたる)、これを和(か)と謂う。中は天下の大本(おおもと)なり。和は天下の達道(たつどう)なり。中和(ちゅうか)を致して、天地位(くらい)し、万物育つ。

[現代語訳]

喜怒哀楽の感情がまだ起こっていない精神状態はどちらにも偏っていないので、これを『中』と言っている。喜怒哀楽の感情が起こってもそれがすべて節度に従っている時には、これを『和』と言う。『中』は天下の摂理を支えている大本である。『和』は天下の正しい節度を支えている達道である。『中和』を実践すれば、天地も安定して天災など起こることもなく、万物がすべて健全に生育するのである。

[補足]

聖人君子が徳を治めれば天変地異も収まり、自然も社会も完璧な秩序と調和を実現することができるという、儒教の『天人相関説』について説明された章である。聖人君子は喜怒哀楽の感情がいまだ起こっていない不偏の精神状態によって『中』の実践をすることができるが、凡人は人や物に刺激されて喜怒哀楽の感情を生じ、その感情が過剰になったり不足してしまったりすることがある。人間の感情が節度を守って安定している状態を『和』というが、儒教では『中和』の実践によって人の世も自然世界も最善の調和を現すこととなり、その調和した世界の中で万物万事が生き生きと本性を伸ばして生成展開するのである。

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[白文]

右第一章。子思述所伝之意以立言。首明道之本原出於天、而不可易、其実体備於己、而不可離、次言存養省察之要、終言聖神功化之極。蓋欲学者於此反求諸身、而自得之、以去夫外誘之私、而充其本然之善。楊氏所謂、一篇之体要是也。其下十章蓋子思引夫子之言、以終此章之義。

[書き下し文]

右第一章。子思伝うる所の意を述べてもって言を立つ。首(はじめ)には道の本原(ほんげん)天より出でて易えるべからず。その実体己に備わりて離るべからざるを明らかにし、次に存養省察(そんようしょうさつ)の要を言い、終(おわり)には聖神功化(せいしんこうか)の極を言う。蓋し学者此(ここ)において諸(これ)を身に反求(はんきゅう)してこれを自得し、もって夫の(かの)外誘(がいゆう)の私を去って、その本然(ほんぜん)の善を充たさんことを欲す。楊氏(ようし)の所謂一篇の体要(たいよう)とは是なり。その下の十章は、蓋し子思、夫子の言を引いて、もって此の章の義を終ゆる。

[現代語訳]

右の第一章。子思が孔子から伝えられた教えの趣意を述べて言説を立てた。初めに、道の根源は天から生まれて変わることがないものである。その実体は自己に既に備わっていて離れることができないということを明らかにし、次に聖人君子の天命の本性の涵養と自己の省察の要点を言い、最後に神聖の徳がある者が『中和』を実践することで、功業を為して万物の育成を為すという極地について述べている。蓋し学者は、この要点についてそれを自分の身に照らし合わせて自分が習得し、かの外界の誘惑に迷わせられる私欲を去って、本性としてある善を充たそうとすることを求める。楊亀山(ようきざん)氏の書いた一篇の要旨とはこのことを言っている。以下の十章は、けだし子思が孔子の言葉を引用して、その引用によってこの章の意義を余すところなく語ったものである。

[補足]

孔子から伝授された子思の思想について書いている章である。聖人君子は『中和の実践』によって本性の涵養と自己の省察を実現することができ、その究極の境地として『聖神功化』と呼ばれる神聖な徳と偉大な功業の実現があるのである。そのためには、外界の様々な刺激の誘惑によって引き起こされる『私利私欲』を抑制することが必要であり、人間や自然の本性として生まれる『善』に従って生きようとする調和的な態度が求められることになる。

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[白文]

右第二章

仲尼曰、君子中庸。小人反中庸。君子之中庸也、君子而時中。小人之中庸也、小人而無忌憚也。

[書き下し文]

右第二章

仲尼(ちゅうじ)曰く、君子は中庸たり。小人は中庸に反す。君子の中庸は、君子にして時に中(ちゅう)す。小人の中庸は、小人にして忌憚なきなり。

[現代語訳]

孔子がおっしゃった。君子とは不偏不党・万世不易の『中庸』を身に付けたものである。小人とは中庸に反している者のことである。君子の中庸は君子の心に従って、時に応じて偏らずに的を射ているということである。小人の中庸は小人の心に従っており、自分の欲望を制御できないので遠慮したり憚ったりすることが無いのである。

[補足]

『君子の中庸』と『小人の中庸』との差異を簡潔に分かりやすく説明した章である。君子の中庸とは、不偏不党であり万世不易のことを意味する。より具体的に言うと、『まだ見ないもの、聞かないものを戒慎恐懼(かいしんきょうく)すること』と『喜怒哀楽の感情を発せずに偏らないこと』『偏らずに本性に調和するという中和を実践すること』が君子の中庸と呼ばれているものである。それに対して、小人の中庸というのは、自分が十分に立派な人物であると勘違いした小人が、自分の欲望・野心を抑えることができない状態のことである。具体的には、『偏ったり揺らいだりしている自分』を棚に上げて、遠慮もせず畏れ憚ることもしないというのが小人の『勘違いした中庸』なのである。

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