『史記・秦始皇本紀』の1:始皇帝の死

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中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『秦始皇本紀』について解説する。

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司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

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[書き下し文]

三十七年十月癸丑(きちゅう)、始皇出游す。左丞相(さじょうしょう)斯(し)従い、右丞相去疾(きょしつ)守る。少子胡亥(こがい)愛慕して従わんことを請い、上これを許す。平原津(へいげんしん)に至りて病む。始皇死を言うを悪み、群臣敢えて死の事を言うものなし。上の病益(ますます)甚だし。乃ち(すなわち)璽書(じしょ)を為りて(つくりて)公子扶蘇(ふそ)に賜ひて曰く、

『喪と与(とも)に咸陽(かんよう)に会して葬れ』と。書已に封ぜられ、中車府令(ちゅうしゃふれい)趙高(ちょうこう)の符璽(ふじ)の事を行うの所に在りて、未だ使者に授けず。七月丙寅(へいいん)、始皇沙丘(さきゅう)の平台(へいだい)に崩ず(ほうず)。

[現代語訳]

秦の始皇帝の三十七年=紀元前210年10月4日、始皇帝は巡遊(全国の行幸)に出発なされた。側近である左丞相の李斯が随行して、右丞相の馮去疾(ふうきょしつ)が都を守っている。末子の胡亥は父を愛慕して同行したいと願い、父の始皇帝は同行を許した。平原の渡し場に来た時、始皇帝は病に陥った。不老不死を願っていた始皇帝は死という言葉を嫌っていたため、家臣の中には今まで死の事を言うものがなかった(始皇帝の死後にどういった統治をするのかの事前の取り決めなども曖昧であった)。始皇帝の病気は旅の途上でますます重くなった。そのため、御璽(皇帝の証である印鑑)を押した親書を公子の扶蘇に送った。親書にはこう書いてあった。

『喪が公表されたら、首都・咸陽に上京して葬儀を主催せよ』と。親書は封緘されて、中車府令(宦官)の趙高が兵符・御璽を管理している場所に置かれていて、まだ使者に渡されていなかった。七月のある日、始皇帝は沙丘宮の平台で病が悪化して崩御した。

[補足]

中国史上初の『皇帝』を自称する始皇帝の誕生から『秦』による中国統一、始皇帝の崩御による『秦』のあっけない滅亡までを書いているのが『史記』の『秦始皇本紀』です。『史記』の巻6、本紀12篇の6番目に収録されているエピソードです。秦の始皇帝はその実名を『エイ政(えいせい)』といい、前259年に誕生して前247年(13歳の時)に秦王に即位しました。

秦王となったエイ政は、ライバルである戦国六国の『魏・斉・燕・趙・韓・楚』を次々に戦争で滅ぼして、紀元前221年に39歳という若さで中国全土の統一に成功しました。エイ政は春秋戦国時代に国家の最高権力者を意味した『王』に代わって、諸国の王を支配する更に上位の権威・身分として『皇帝』という称号を初めて用い、自分の死後に下位者である家臣が『諡(おくりな)』を付けることを禁じて、永久に『始皇帝』という名前で呼ぶように命令しました。

中国全土を統治する絶対権力者となった秦の始皇帝は、全国に皇帝が直轄する官僚を派遣して地方を統治させる『郡県制』を実施し、度量衡・法律・文字の書体・車の軌道の幅などの『規格の統一』を行って、当時各国ごとにバラバラであった中国の文化や法律、規格を統一する役割を果たしました。始皇帝は度々『巡狩』と呼ばれる地方行幸の旅を行っていましたが、紀元前210年10月に都の咸陽(現在の陝西省咸陽市)を巡狩のために出発した50歳の始皇帝は、会稽から山東半島などを巡った後に、平原で黄河を渡ろうという時に病気となり、沙丘にある離宮の平台で崩御しました。

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[書き下し文]

丞相斯(し)上(しょう)崩じて外に在るが為に、諸公子及び天下に変有らんことを恐れ、乃ちこれを秘して喪を発せず。棺(かん)温涼車(おんりょうしゃ)中に載せ、故(もと)の幸(こう)せらるる宦者(かんじゃ)参乗し、至る所に食を上げ、百官事を奏すること故の如くし、宦者すなわち温涼者中よりその奏事(そうじ)を可す。独り子の胡亥、趙高及び幸せられし所の宦者五六人のみ上の死を知る。

行きて遂に井ケイ(せいけい)より九原(きゅうげん)に抵る(いたる)。会(たまたま)暑うして、上の温車臭し。乃ち従官(じゅうかん)に詔(みことのり)し、車に一石(いっせき)の鮑魚(ほうぎょ)を載せ、以てその臭を乱さ令む(しむ)。行きて直道(ちょくどう)より咸陽に至りて喪を発す。太子の胡亥、位を襲い、二世皇帝と為る。

[現代語訳]

丞相(現在の総理大臣に相当)の李斯(りし)は、始皇帝が外地で崩御したため、公子たちや諸侯の間で反乱が起こることを恐れて、始皇帝の死を秘匿して喪を発しなかった。棺を温涼車に載せて、生前から厚遇されていた宦官たちを同乗させ、行く先々で遺体に食事を献上し、官僚たちが諸事を奏上するのもそのままにして、宦官がその都度、温涼車の中で皇帝に代わって裁可を下した。始皇帝の死を知っているのは、ただ末子の胡亥と宦官の趙高、その周辺にいる五~六人の宦官だけであった。

進んで井ケイを経てから九原に到着した。気候が暑いため、始皇帝の温涼車からは死臭が溢れてきた。そこでお供をしている官吏に詔勅を発して、車に一石の塩漬けの魚を積んで、それで臭い死臭を紛らわせようとした。更に進み、直道を通って咸陽に到着し、始皇帝の喪を公表した。太子の胡亥が皇帝の位を襲って、二世皇帝となった。

[補足]

絶対権力者である始皇帝の崩御を知られると、跡目を狙う公子や秦に逆らおうとする諸国の王が反乱を起こす危険性があったため、丞相の李斯は始皇帝の死を隠匿して首都・咸陽に帰還することを決めました。しかし、始皇帝に厚遇されていた宦官の趙高は、末子である胡亥の家庭教師としての役割を果たしていたため、長男の扶蘇に代えて胡亥を皇帝の位に就けることで、現在の宦官としての影響力を維持したいという野心を抱えていたのです。

扶蘇を抑えて胡亥を二世皇帝にするという趙高の計画に対して、初め李斯は反対しましたが、扶蘇が皇帝になれば自分たちが謀反の疑いを掛けられて処罰される恐れがあるという趙高の話術に丸め込まれてしまいます。結局、李斯は胡亥が皇帝になることを認めてしまいます。長男の扶蘇とその後見人である将軍・蒙恬(もうてん)に対しては、『謀反の疑いがあるためすぐに自決せよ』と始皇帝の名前を書いた偽物の親書を送りつけます。

温涼車(うんりょうしゃ)というのは窓の開閉によって寒暖を調節できる車ですが、当時の中国に冷房があるわけはないので、炎天下の中を進むごとに始皇帝の遺体は次第に腐臭を強く放ち始めます。中国全土に覇権を打ち立てた最高権力者の最期としては、余りに悲惨で虚しい光景でもあり、『猛き者も遂には滅びぬ』の諸行無常を感じさせられます。その死臭(始皇帝の死の事実)を誤魔化すために、臭い塩漬けの魚を積み込んだりもしますが、咸陽に到着するとすぐに始皇帝の喪を公表して、末子・胡亥が二世皇帝として即位しました。

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