『史記・項羽本紀』の8:垓下の戦いで四面楚歌に陥った項羽の最期

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『項羽本紀』について解説する。

参考文献(ページ末尾のAmazonアソシエイトからご購入頂けます)
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[書き下し文]

項王の軍垓下(がいか)に壁(へき)するも、兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵、これを囲むこと数重(すうちょう)なり。夜漢軍の四面皆楚歌(そか)するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰く、「漢皆已(すで)に楚を得たるか。これ何ぞ楚人(そひと)の多きことか」と。項王則ち夜起き、帳中(ちょうちゅう)に飲す(いんす)。美人あり。名は虞(ぐ)、常に幸(こう)せられて従う。駿馬(しゅんめ)名は騅(すい)、常にこれに騎る(のる)。ここに於て項王乃ち悲歌慷慨(ひかこうがい)し、自ら詩を為りて(つくりて)曰く、

「力山を抜き、気世を蓋う(おおう)、時利あらず、騅逝かず、騅の逝かざる奈何(いかん)すべき、虞や虞や若(なんじ)を奈何せん」と。歌うこと数ケツ、美人これに和す。項王泣(なみだ)数行下り、左右皆泣き、能く仰ぎ視るものなし。

[現代語訳]

項王の軍勢は垓下に籠城したが、兵士の数は少なく食糧も尽きてしまった。漢の軍勢と諸侯の援軍は、城を何重にも厳しく包囲した。夜、四方を囲んだ漢軍がみんなで楚の歌を歌っているのを聴いて、項王はとても驚いて言った。「漢はすでに楚の全土を手に入れてしまったのか。敵軍の中に何と楚人が多くいることか」と。項王は夜に起きて、軍営の中で酒宴を開いた。一人の美人がそこにいた。名前を虞といい、いつも項羽に寵愛されて側に仕えていた。一頭の駿馬もいる。名前は騅といい、項羽はいつもその馬に騎乗していた。この窮地に至って、項羽は自作の歌を作って、悲憤慷慨しながら歌った。

「俺の力は山をも引き抜く、俺の気力は天下を覆い尽くす。だが時勢の利を得られなかった。愛馬の騅が進んでくれぬ。騅が進まないのにどうやって戦えば良いのか。愛する虞よ虞よ、今の俺ではもはやお前をどうしてやることもできないのだ」と。数回繰り返して項羽が歌うと、虞美人もそれに合わせて歌った。項王はおいおいと涙を流し、左右の家臣もみんなで泣き、顔を上げて項王の顔を見ることができる者はいなかった。

[解説]

劉邦を圧倒して恐怖させ続けてきた猛将・項羽でしたが、中国全土の諸侯と連携した包囲網を築いてきた劉邦の大軍勢の前に、遂に最期の戦いの舞台となる垓下(がいか,現在の安徽省)の城にまで追い込まれていきます。この紀元前202年12月の『垓下の戦い』において、有名な『四面楚歌』の故事成語を生み出したエピソードが展開されるのですが、包囲した漢軍の四方から聞こえてきた懐かしい楚の歌を聴いて、項羽は『楚の全土がすでに漢・劉邦に支配されてしまった(もうどうやっても逆転することはできない)』と早合点してもはやこれまでと観念してしまうのです。

劉邦は軍師・張良の忠告に従って、漢軍の最大の功労者である斉の地を拠点にしていた配下の韓信(かんしん)を『斉王』に封じ、更に魏の地で盗賊の大勢力を擁して常に漢をバックアップしてくれていた彭越(ほうえつ)を『魏王』に封じて、漢を裏切る恐れのない全面的な軍事同盟(楚・項羽に対する大包囲網)を取り付けることに成功しました。

当時、韓信は劉邦と互角以上の大兵力を擁する強大な将軍になっており、形式的には劉邦の家臣でしたが漢の中には『実力を蓄えた韓信は劉邦を裏切って独立勢力(漢の命令に服さない君主)になるのではないか』との疑心暗鬼が芽生え始めていました。張良は後顧の憂いを断ち切り、韓信の絶対的な忠誠と協力を取り付けるために、劉邦に対して『韓信に斉の王位(独立性を持つ最大の権限・名誉)を授けて、今後につながる恩義を与えておくように』とのアドバイスをしたのでした。この時期の張良の頭の中にあった統治ビジョンは、劉邦を王よりも上位の地位である『皇帝』に据えて、皇帝である劉邦が各地の有力な将軍たちに『王位(独立性の強い権限)』を授ける代わりに、絶対の忠誠を誓わせるというものでした。

[書き下し文]

ここに於て項王乃ち東のかた烏江(うこう)を渡らんと欲す。烏江の亭長(ていちょう)船を儀して待ち、項王に謂いて曰く、「江東(こうとう)小なりと雖も、地は方千里(ほうせんり)、衆は数十万人、亦王たるに足るなり。願わくは大王急ぎ渡れ。今独り臣のみ船有り、漢軍至るも、以て渡ることなからん」と。

項王笑ひて曰く、「天の我を亡ぼすに(ほろぼすに)、我何ぞ渡ることを為さん。且つ籍江東の子弟八千人と江を渡りて西し、今一人の還る者なし。縦い(たとい)江東の父兄憐れみて我を王とすとも、我何の面目ありてかこれに見えん(まみえん)。縦い彼言わずとも、籍独り心に愧(は)じざらんや」と。乃ち亭長に謂いて曰く、「吾公の長者なるを知る。吾この馬に騎る(のる)こと五歳、当たる所敵なく、嘗て一日に千里を行く。これを殺すに忍びず。以て公に賜わん」と。

乃ち騎をして皆馬より下りて歩行せしめ、短兵(たんぺい)を持ちて接戦す。独り籍の殺す所の漢軍数百人なり。項王自らも亦十余創(じゅうよそう)を被る。顧みて漢の騎司馬(きしば)の呂馬童(りょばどう)を見て曰く、「若(なんじ)は吾が故人に非ずや」と。馬童これに面き(そむき)、王翳(おうえい)に指さして曰く、「これ項王なり」と。項王乃ち曰く、「吾聞く、漢我が頭(こうべ)を千金、邑(ゆう)万戸(ばんこ)に購うと。吾若の為に徳せん」と。乃ち自刎(じふん)して死す。

[現代語訳]

その後、項王は東方の烏江で、長江を渡ろうとした。烏江の亭長は船を用意して待っており、項王に言った。「江東は狭い土地ですが、土地は千里四方に開け、人口も数十万人はいますから、王となるにも十分な土地でございます。どうぞ、大王よ、急いで渡って下さい。今、ここでは私だけが船を持っていますから、漢軍がやってきてもすぐには長江を渡ることができませんので」と。

項王はそれを聞いて笑って言った。「天が我を滅ぼそうとしているのに、どうして俺がこの川を渡ったりする意味があるのか。俺は江東の若者8千人と長江を渡って西に向かったが、今では生きて還った者は一人もいないのだぞ。たとえ江東の親・兄が、憐れみで俺を王にしてくれたとしても、いったいどんな顔をして彼らに会えばいいのか(この情けない有様では面目が立たない)。たとえ彼らが何も言わなくても、俺は自分自身の心が恥ずかしく思わずにはいられないのだ」と。項王は亭長に言った。「俺はお前が優れた人物だということが分かった。俺は5年間、この馬に乗ってきたが、向かう所敵なしの勢いであり、かつては一日に千里を駆け抜けたものだ。この名馬を殺すのは忍びない。だからお前に与えたい」。

そして項王は、騎兵を全員馬から下ろして歩かせ、短い刀剣の武器を持って接近戦を行った。項籍(項羽)は一人で数百人もの漢兵を殺したが、項羽自身も十箇所以上の切り傷を負ってしまった。振り返って漢の騎兵隊長の呂馬童を見てから言った。「お前は俺の昔なじみではないか」。呂馬童は顔を背けて、項王を指差しながら王翳に言った。「こいつが項王だぞ」と。項王は呂馬童に言った。「俺は漢が俺の首に千金の賞金と一万戸の村をかけていると聞いているが、お前のためにこの首を捧げてやろう」。そう言うと、項羽は自分で首を切って死んでしまった。

Copyright(C) 2013- Es Discovery All Rights Reserved