『史記 仲尼弟子列伝 第七』の現代語訳・抄訳:5

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 仲尼弟子列伝 第七』の5について現代語訳を紹介する。

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司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 仲尼弟子列伝 第七』のエピソードの現代語訳:5]

ゼン孫師(ぜんそんし)は陳の人で、字を子張(しちょう)という。孔子より48歳年下である。

子張が俸禄・官位を求めることについて問うと、孔子は言った。『多く聞いて疑わしい事を除き、それで残った部分について慎重に発言すれば、失言は少なくなる。多く見て曖昧な事を取り除き、残った部分について慎重に行動すれば、後悔は少なくなる。発言して失言が少なく、行動して後悔が少なければ、自然に禄位は得られるものである。』

後日、孔子のお供をして陳・蔡の間で困難に遭遇した時に質問した。孔子は言った。『言うことが忠信であり、行うことが篤敬(とくけい)であれば、どんなに野蛮な国であってもそれは行われるだろう。言うことが忠信ではなく、行うことが篤敬でもなければ、故郷であってもそれは行われないだろう。忠信・篤敬が立っている時に見え、車に乗っている時にはくびきに横たわって見える。そうすれば、道は行われるだろう。』子張はこの言葉を、前垂れに書き付けた。

子張が聞いた。『士というものは、どのようにすれば達と言えるでしょうか。』

孔子は答えた。『どういうものなのか。お前のいうところの達というものは。』

子張は答えて言った。『国にあっては名声を得て、家にあっても評判が良いということです。』

孔子は言った。『それは聞である、達ではない。達とは、正直で義を好み、人の顔色を見て察することができ、配慮して人にへりくだることである。そうであれば、国でも家でも達に通じることができるのだ。聞というのは、仁者に見えても実際には違っていることだが、それに甘んじて疑うことがないので、国でも家でもそれなりの名声を得ることができるのだ(聞は達にはとても及ばない表層的な名誉・評判である)。』

曹参(そうしん)は南武城(山東省)の人で、字を子輿(しよ)といった。孔子より46歳年下である。孔子は曹参がよく孝の道に通じていると認めており、教えを授けて『孝経』を作らせた。曹参は魯で死んだ。

澹台滅明(たんだいめつめい)は武城(山東省)の人で,字を子羽(しう)といった。孔子より39歳年下である。容貌がとても醜かったので、孔子に師事しようとした時に、孔子は子羽の才覚が薄いのではないかと思ってしまった。しかし、孔子の教えを受けた後には、退いて修行をし、外出する時には大道を行き、公用がなければ卿大夫(けいたいふ)に会わなかった。

南游して揚子江に行ったことがあるが、子羽に従った弟子は300人いた。物品のやり取りや官位の去就は義に基づくべきことを説いて、諸侯の間で名声を得た。孔子はそれを聞いて言った。『私は議論の能力で人を判断して、宰予で間違い(宰予は言論だけの行動の伴わない人だった)、容貌で人を判断して、子羽で間違ってしまった(容姿は醜悪だが実際は優れた徳と知性を持つ君子だった)。』

必不斉(ふくふせい)は字を子賤(しせん)といった。孔子より30歳年下である。

孔子は子賤について言った。『子賤は君子であるな。しかし、魯にもし君子がいなければ、彼はどうやって君子になることができたのだろうか。』

子賤は単父(ぜんぽ,山東省)の長官になって、孔子に復命して言った。『この国には私(不斉)よりも賢明な人物が五人いて、私に政治について教えてくれます。』

孔子は言った。『惜しいことかな。不斉の治めているところは小さすぎる。もし治めるところが大きければ、もっと素晴らしい政治が行われるはずなのに。』

原憲(げんけん)は字を子思(しし)といった。子思が恥について質問すると、孔子は答えた。『国に道が行われていても禄を食み(はみ)、国に道が行われていなくても禄を平気で食む、これが恥というものだ。』

子思が言った。『人に勝とうとする。攻撃的である。人を恨む。貪欲である。これらが無ければ、仁といえるでしょうか。』

孔子は言った。『それは難しいことではあるな。だが、それだけで仁といえるかは私には分からない。』

孔子の死後、原憲は世を離れて草深い沢に住んでいた。子貢は衛国の宰相になり、四頭立ての馬車に乗り、騎馬の従者を従えて、藜(あかぎ)や豆の葉を掻き分けて田舎の村里に来て、原憲に挨拶をした。原憲は古びた衣冠を身に付けて、子貢に会った。子貢はその原憲の姿を恥じて言った。『あなたはお疲れ(疲弊した病の状態)のようですね。』

原憲は言った。『私は「財産のない者を貧といい、道を学んでも実行できない者を病という」と聞いている。私は貧だが、病ではないぞ。』

子貢は慙愧して己を恥じ、不快な顔をして立ち去った。子貢は死ぬまで、その時の失言(貧しい身なりをした原憲をそれだけの理由で軽視したこと)を恥じていた。

公冶長(こうやちょう)は斉の人で,字を子長(しちょう)といった。孔子は言った。『長ならば我が娘を妻にやっても良い。長は牢獄に入ったこともあるが、それは無実の罪であった。』そして、自分の娘を子長の妻にしたのである。

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