『史記 蘇秦列伝 第九』の現代語訳:3

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 蘇秦列伝 第九』の3について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 蘇秦列伝 第九』のエピソードの現代語訳:3]

「私(臣)の聞くところでは、尭(ぎょう)には農夫三人分の田地(三百畝)もなく、舜にはわずかな咫尺(しせき,八寸×十寸)の土地さえありませんでしたが、共に天下を保有しました。禹(う)には百人の村落もありませんでしたが、諸侯の王として君臨し、殷の湯王・周の武王はその将士が三千に過ぎず、戦車は三百乗に過ぎず、兵卒(兵士)は三万に過ぎませんでしたが、天子として立ちました。これらは本当に王者としての道を得たからです。ですから、賢明な君主は国外では敵の強弱を推し測り、国内ではその士卒の賢愚を推し測り、両軍が戦闘状態に入る前にその勝敗存亡の機が自然に胸中に浮かんでくるのです(だから戦闘で負けるということがないのです)。どうして人の言葉に影響されて、状況がはっきりしないのに物事を決したりするでしょうか。」

「私が密かに天下の地図を取り出して調べてみると、諸侯の土地は秦の五倍であり、諸侯の士卒を調べてみると、秦の十倍あります。六国が一つとなり、力を併せて西に秦を攻めれば、秦は必ず敗れることになるでしょう。しかし、西面して服従すれば、秦の臣下にされるでしょう。果たして、人を破るのと人に破られるのと、人を臣下にするのと人に臣下にされるのとが、どうして同じ論になどなるでしょうか。」

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「連衡論を説く者は、みんな諸侯の土地を割いて秦に与えたいと欲しています。秦の目的が成れば、彼らは高台に上り、邸宅を美しくし、笛や琴の音に聴き入って、邸宅の前には楼門・軒轅(けんえん)があり、後ろにはほっそりした美人がいて、自分の国が秦の侵略の災いを蒙っても国人と憂いを共にはしないでしょう。だからあの連衡論者は、日夜つとめて秦の権勢を語って諸侯を脅し、土地を割かせようとしているのです。どうか大王はこのこと(連衡論がためにならないこと)を熟慮してください。」

「私が聞くところでは、名君は疑いを断ち切り讒言(ざんげん)を退け、流言も聞き入れず、徒党を組む者を採用しないということです。故に、臣下は君主を尊敬して、領土を広げて武力を強くする計略について、君主の御前で誠心から披露することができるのです。密かに大王のために考えてみると、韓・魏・斉・楚・燕・趙を一つにして合従(同盟)して親しくし、秦に対抗すべきなのです。天下の将軍・宰相を亘水(えんすい)のほとりで会合させて、人質を交換し、白馬を殺して血をすすり合って同盟を結び、

『秦が楚を攻める場合には、斉・魏はそれぞれ精鋭軍を出して楚を助け、韓は秦の糧道を断ち、趙は黄河・章水を渡り、燕は常山の北を守ります。秦が韓・魏を攻める場合には、楚は秦の背後を断ち切り、斉は精鋭軍を出して韓・魏を助け、趙は黄河・章水を渡り、燕は雲中を守ります。秦が斉を攻める場合には、楚は秦の背後を断ち切り、韓は城皋(せいこう,河南省)を守り、魏は河内の道を塞いで、趙は黄河を渡って博関(山東省)を目指し、燕は精鋭軍を出して斉を助けます。秦が燕を攻める場合には、趙は常山を守り、楚は武関に軍の陣を布いて、斉は渤海を渡り、韓・魏は共に精鋭軍を出して燕を助けます。秦が趙を攻める場合には、韓は宜陽(ぎよう)に軍陣を布き、楚は武関に軍陣を布き、魏は河外の地に軍陣を布き、斉は清河を渡り、燕は精鋭軍を出して趙を助けます。もし諸侯の中で同盟に違反する者があれば、残りの五国で共に裏切った国を征伐する。』という約束をしよう。六国が合従して親交を結び秦を追い出せば、秦軍も絶対に函谷関を出て山東省を侵略することはできないでしょう。こうすれば、覇王の業績も成就するでしょう。」

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趙王は言った。「私は年齢が若く、王位に即いてから日も浅く、今まで社稷・国家を維持するための長期的な計略を聞くことができなかった。しかし今、先生は天下を維持して諸侯を安定させる意志を持っておられるようなので、私は国を挙げて先生の計略に従いましょう。」 趙王は、車百乗、黄金千溢(せんいつ)、白璧百対(はくへきひゃくつい)、錦繍千束を諸侯への贈り物として、蘇秦(そしん)に同盟を結ばせようとした。

この時、周の天子は、先祖の文王・武王の胙(ひもろぎ)を秦の恵王に賜って厚遇していた。恵王は犀首(さいしゅ,元は魏の将軍)を派遣して魏を攻めさせ、魏の将軍の龍賈(りゅうか)を捕虜にして、雕陰(ちょういん)の地を取り、更に東に軍を進ませようとした。蘇秦は秦が趙にまで攻めてくることを恐れ、張儀(ちょうぎ)を激怒させて秦に入国させた。

そして、蘇秦は韓の恵宣王(けいせんおう)に言った。「韓は北には鞏(きょう,河南省)・成皋(せいこう)の堅固な城邑があり、西には宜陽・商阪(ぎよう・しょうはん)の要塞があり,東には宛・穰(えん・じょう)の城邑とイ水があり、南にはケイ山があります。その土地は九百余里四方、武装兵は数十万、天下の強弓・勁弩(けいど)はみんな韓で生産されています。谿子(けいし)の弩(いしゆみ)や少府の時力・距来(じりき・きょらい)はすべて六百歩の外を狙って射ることができます。

韓兵が足を上げて弩を踏んで射れば、百発があっという間に放たれ、遠く飛んだ矢でも矢筈が見えなくなるほど胸に深く刺さり、近い矢は鏑(かぶら)が心臓を貫きます。韓兵の剣戟(けんげき)はすべて冥山で生産され、棠谿、墨陽、合賻、鄧師、宛馮、龍淵、太阿の名刀はみんな陸上では牛馬を断ち、水中では鵠鴈(こうがん)を切り、敵に当たれば堅い鎧や鉄の盾も切り裂きます。韓には革製の抉(ゆがけ)や盾の紐など、備わらないものがありません。勇敢な韓兵が堅固な鎧をつけて、勁弩(けいど,石弓)を踏んで、鋭い剣を帯びれば、一人で百人の敵兵に相当するのです。韓の強大さと大王の賢明さがあるのに、西面して秦に仕え、手を拱いて服従することは、社稷・国家を辱めて天下の笑いものになることにおいて、これ以上の屈辱はありません。ですから、どうか大王はよく熟考して下さい。」

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