『史記 蘇秦列伝 第九』の現代語訳:7

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 蘇秦列伝 第九』の7について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 蘇秦列伝 第九』のエピソードの現代語訳:7]

蘇秦を誹謗する者がいて、「蘇秦は、一国を右に売り左に売るような反復の臣である。今に反乱でも起こすだろう。」と言った。蘇秦は斉で罰せられることを恐れて燕へと帰った。燕王は蘇秦を元の官職には返さなかった。蘇秦は燕王に謁見して言った。

「臣は、東周の賤卑な人間です。わずかな功績があったわけでもないのに、大王は宗廟において親しく臣(私)に官職を与え、朝廷では礼遇して下さいました。今、臣は大王のために斉軍を退け、十城市を取り返してきたのですから、ますます親しく信用して下さっても良いはずです。しかし、今帰ってきたところ、大王は臣を元の官職にも戻して下さらず、これは誰かが大王に臣が不信な人物だと中傷したからでしょう。しかし、臣が不信であることは、大王にとっては幸福なことです。臣は『忠信は自分のためにする所であり、進取は人のためにする所である』と聞いております。かつ臣が斉王に説いたことも、決して欺いたわけではありません。臣が老母を東周に残してきたのは、自分のためにすることを捨てて、人のための進取を行おうと思ったからです。今、曾参(そうしん)のように孝行な人物、伯夷(はくい)のように清廉な人物、尾生(びせい)のように信義のある人物がいるとしましょう。この三人を大王に仕えさせるとしたら、大王は満足するでしょうか。」

燕王は言った。「満足するぞ。」 蘇秦は言った。「曾参のように孝行な人物は、義を守り一日といえども親元を離れて外泊をしません。大王はこういった人物に、千里の遠方にまで迎えに行って、弱燕の危機に晒されている王に仕えさせることなどできますか。伯夷のような清廉な人物は、義を守り孤竹国(こちくこく)の後嗣にならず、周の武王の重臣となることも受け容れず、侯に封ぜられることも拒否して首陽山で餓死しました。伯夷ほどの清廉な人物に、千里の遠方まで迎えに行って、斉で進取の活動を行わせることなどができますか。尾生のような信義の人物は、橋の下で女子と密会する約束をしたが、女子がやって来ないので、上げ潮で水が来てもそこを去らず、橋柱を抱いたまま溺れて死んでしまいました。尾生ほど信義のある人物に、千里の遠方まで迎えに行って、斉の強兵を退かせることなどできますか。(これらの過去の名臣について考えると)臣は、いわゆる忠信であるがために罪を得た者なのです。」

燕王は言った、「お前は忠信でないだけである。どうして忠信であるがために、罪を得たりする者がいるだろうか。」 蘇秦は言った。「そうではないのです。臣はこういう話を聞いています。遠方に赴いた役人がいて、その間に妻が他の男と私通(密通)していました。夫が今から帰ってくるというので、密通していた男が心配すると、妻が『心配しなくても良いのです。私は毒薬酒を作って待っているのです。』と言いました。三日経って、夫は帰宅しました。妻は妾に命じて、毒薬酒を夫に勧めさせました。妾は酒が毒薬であることを言いたかったのですが、それを言えば主人である妻を追い出させることになるだろうと恐れました。また言わないでおこうとも思いましたが、そうなると今度は主人を殺すことになるだろうと恐れました。そこで、わざと転んで酒をこぼしてしまいました。主人は大いに怒って、妾を五十回も笞で打ち据えました。この話では、妾は転んで酒をひっくり返すことで、上は主人の命令を果たし、下は主婦の安全を保ったわけです。しかし、自分が笞で打たれることを免れることはできませんでした。これを聞けば、どうして忠信だからといって、絶対に罰せられないと言えるでしょうか。臣の過ちも、不幸にしてこの妾の話の類なのでしょうか。」

燕王は言った。「先生はまた、元の官職に戻ってください。」 そして、大王はますます蘇秦を厚遇するようになった。

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燕の易王(いおう)の母は、文侯の夫人であったが、蘇秦と私通していた。易王はそれを知っていたが、ますます蘇秦を厚遇した。蘇秦は誅罰を受けることを恐れて、燕王に言った。「臣が燕に留まっていては、燕が天下に重きを為すようにはできませんが、斉にいれば燕は必ず天下に重きを為すようになるでしょう。」 燕王は言った。「ただ、先生のしたいようにされれば良いでしょう。」 そして、蘇秦は偽って燕で罪を得たことにして、斉へと亡命した。斉の宣王は、蘇秦を客卿(かくけい,他国出身の大臣)に任命した。

斉の宣王が崩御して、泯王(びんおう)が即位した。蘇秦はビン王に説いて、盛大な葬儀を営んで宣王への孝行を明らかにし、宮室を高く大きくして中庭を広くし、政治が上手くいっている内情を明らかにさせた。この浪費によって、斉を疲弊させ燕の役に立とうとしたのである。燕の易王が死んで、カイが即位して王となった。その後、斉の大夫で主君の寵愛を蘇秦と争う者が多くなり、刺客を放って蘇秦を刺殺させようとした。蘇秦は死ななかったが重傷で、刺客は走り去った。斉王は役人に命じて刺客の賊を探索させたが、捕まえられなかった。蘇秦は死に臨んで、斉王に向かって言った。「臣が死んだら、遺体を車裂きの刑にして市に晒し者にし、『蘇秦は燕のために斉で反乱を起こそうとした』と市中に触れてください。こうすれば、臣を狙った賊を必ず捕まえることができます。」

この言葉の通りにすると、蘇秦を暗殺しようとした者が果たして自首してきたので、斉王はこの刺客を誅殺した。燕ではこれを聞いて、「おかしなことだ。斉が蘇秦のために仇を伐って報じてやるとは。」と言い合った。

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蘇秦の死後、実際は燕の謀略のために斉に入国していたことが発覚した。斉は後でこの事実を聞いて、燕を恨んで怒った。燕は斉を非常に恐れた。

蘇秦の弟を蘇代(そだい)といい、代の弟が蘇厲(それい)である。兄が事を成し遂げたのを見て、二人とも遊説の術を学んだ。蘇秦が死ぬと、蘇代は燕王に謁見を求め、兄の後を継いで仕官しようとして言った。「臣は東周の賤しい人物です。ひそかに大王の信義が非常に高いと聞き、田舎者の愚鈍をも顧みず、農具を捨てて大王に仕官しようと志しました。都の邯鄲(かんたん)に参りましたところ、実際に見た状況は東周で聞いたものよりも劣っていて、ひそかに失望したのです。燕の朝廷に参りましてから、大王の群臣・下級官吏について拝見したところ、大王は天下の明君(明王)であらせられます。」

燕王は言った。「お前の言ういわゆる明王とはどのような人物なのか。」

蘇代は答えて言った。「臣は『明王というものは、自らの過ちを聞くに努め、自らの善について聞くことを望まない』と聞いております。なので、臣は大王の過ちについて申し上げさせて頂きます。そもそも、斉・趙は燕の仇敵であり、楚・魏は燕の味方の国であります。今、大王が仇敵の意思に従い、味方の国を伐たれるのは、燕に利益をもたらす行為ではありません。どうか大王は熟慮されてください。この計略が過ちであると気づき、その過ちについて大王に語らない者は忠臣ではないのです。」

燕王は言った。「元々、斉は寡人(わたし)の仇敵であり、伐ちたい国である。しかし我が国は疲弊していて、力不足なのが不安である。あなたが燕を率いて斉を伐つことができるのなら、寡人は国を挙げてあなたに委ねましょう。」

蘇代は答えて言った。「およそ天下には七つの戦闘力の強い大国があり、燕はその中では弱い国です。独力で戦うことはできませんが、いずれかの大国に付けば、必ずその国が天下で重きを為します。南方の楚につけば楚が重きを為し、西方の秦につけば秦が重きを為し、中央で韓・魏につけば韓・魏が重きを為します。かつ、燕がついた国が天下で重きを為せば、その国は大王を重んじて、燕もまた天下で重きを為すことになるでしょう。今あの斉では、君主が年長であり思いのままの政治を行っています。南に楚を攻めること五年、蓄えていた糧食・財貨は尽き果てて、西方の秦に苦戦すること三年、士卒は疲れ果てているのに、北方の燕と戦い、燕の三軍を撃滅してその二将軍を捕虜にしました。さらになお、その兵力の余力をもって南に向かい、五千乗の戦車を擁する大国の宋を破り、十二の諸侯を併合しました。これで君主の欲望は満たされるでしょうが、その民の力は枯渇してしまいます。この斉の悪い方法は取り上げるべきものではありません。臣は『頻繁に戦えば民は疲れ果て、長く戦えば兵士は疲れ果てる。』と聞いております。」

燕王は言った。「私は、斉には清済・濁河(せいせい・だくが)があって、国の堅固な守りにすることができ、長城・鉅防(ちょうじょう・きょぼう)があって要塞にするに足ると聞いているが、それは本当のことなのか?」

蘇代は答えて言った。「天の時が斉に味方しなければ、清済・濁河があってもどうして国の固めになどすることができましょうか。民力が疲弊しているのでは、長城・鉅防があってもどうして要塞とするに足るでしょうか。かつ斉はこれまで済水以西で徴兵を行いませんでしたが、これは趙に備えてのことでした。黄河以北でも徴兵を行いませんでしたが、これは燕に備えてのことです。しかし、今は済水以西でも黄河以北でも、ことごとく徴兵が行われていて、斉の領内は疲弊しきっています。そもそも驕慢な君主は必ず利を好み、まさに滅亡せんとする国の臣は必ず財を貪るものです。大王が本当によく弟や甥を人質として斉に送り、宝珠・玉帛(ほうじゅ・ぎょくはく)を贈って斉王の左右の臣の機嫌を取るならば、斉は燕を徳のある国として、軽率にも宋を滅ぼそうとするでしょう。こうなれば(斉が宋との戦いで更に疲弊しきるので)斉を滅ぼすことができるのです。」

燕王が言った。「私は遂に先生のおかげで(覇王となるべき)天命を受けることができたぞ。」 燕は人質として一子を斉へと送った。蘇厲(それい)が燕の人質に頼って、斉王に謁見を求めた。斉王は蘇秦を怨んでいたので、蘇厲を囚えようとした。しかし、燕の人質が謝罪して取りなしたので、遂に蘇厲は贈り物をして斉の臣になった。

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