『史記 樗里子・甘茂列伝 第十一』の現代語訳:2

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 樗里子・甘茂列伝 第十一』の2について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 樗里子・甘茂列伝 第十一』のエピソードの現代語訳:2]

秦の武王の三年、王は甘茂に言った。「寡人(私)は戦車が通れるくらいの道を三川(さんせん)まで通して、周の王室を伺っている。これを為せば、寡人は死んでも悔いはない。」 甘茂は言った。「それでは魏に要請して同盟を結び、韓を伐ちましょう。」 武王は向寿(しょうじゅ,宣太后の一族の者)を副使としてつけて行かせた。 甘茂は魏に着き同盟を結ぶと、向寿に言った。「あなたは帰国して大王に『魏は臣の言葉を聞き入れました。しかし、大王は韓を伐たないようにお願い申し上げます』と伝えてください。この事が成れば、その功績はすべてあなたのものにして差し上げましょう。」

向寿は帰国して武王に報告した。武王は甘茂を息壌(そくじょう)まで出迎え、甘茂が到着すると韓を伐つべきではない理由を質問した。それに答えて言った。「韓の宜陽(ぎよう)は大県であり、上党(じょうとう,山西省)・南陽(河南省)からは長く宜陽に財貨・糧食を備蓄しています。名は県ですが、実際には郡に相当します。今、大王が数ヶ所の険しい土地を乗り越えて、千里の道を攻めていきましても、難しいでしょう。昔、曾参(そうしん,孔子の高弟)が費(魯の邑・山東省)にいた時、魯人で曾参と同姓同名の者がいてその者が人を殺しました。ある人が曾参の母に『曾参が人を殺した』と告げましたが、母は自若として機織り(はたおり)を続けました。しばらくしてまた別の者が『曾参が人を殺した』と言いましたが、母はやはりまだ自若として機を織っていました。更にもう一人が『曾参が人を殺した』と告げると、その母は杼(ひ)を投げ出して機台(はただい)から下り、墻(かき)を乗り越えて走り出しました。そもそも曾参の賢明さと母親の信頼とがあっても、三人もの人が子を疑うと、さすがの母も本当なのではと恐れたのです。

しかし今、臣(私)の賢明さなどは曾参に及ばず、王の臣(私)に対する信頼も曾参の母の曾参に対する信頼には及びません。臣を疑う者はたったの三人ではありません。だから臣は、大王が杼を投げ出した曾参の母のように臣を疑うのではないかと恐れたのです。昔、張儀は秦のために西の巴・蜀の地を併合し、北の西河の外を開拓し、南の上庸(湖北省)を取りましたが、天下の人々は張儀を偉大と思わず、先王(恵王)の賢明さを称賛しました。また、魏の文侯は楽羊(がくよう)を将軍に任命して中山(ちゅうざん,河北省)を攻めさせました。楽羊は三年かかって中山を抜きました。しかし、楽羊が帰ってきて論功を行う時になると、文侯は箱一杯の彼に対する誹謗中傷の書(手紙)を示しました。楽羊は再拝稽首(さいはいけいしゅ)して言いました。『今回の勝利は臣の功績ではありません。主君のお力です。』 今、臣は外国から参ったよそ者の臣下であります。樗里子(母が韓の王女)、公孫セキ(元韓の公子)の二人が韓を保護するために臣を誹謗すれば、大王は必ずこれを聞き入れるでしょう。そうなると、大王は魏王を欺いたということになり、臣は公仲侈(こうちゅうし,韓の宰相)の怨みを受けることになるでしょう。」

大王は言った。「寡人(私)はあなたについての誹謗は聞き入れないでおきます。それをあなたと約束しよう。」 そして、武王は遂に丞相甘茂に命令して、兵を与えて宜陽を伐たせた。甘茂が五ヶ月かけても抜けずにいると、樗里子・公孫セキがやはり誹謗してきた。すると、武王は甘茂を召喚して戦争をやめようとした。甘茂が言った。「息壌はそこにあります(約束をお忘れになりましたか)。」 大王は言った。「確かに約束があったな。」 再び大軍を起こして、甘茂に命じて韓を伐たせた。敵の斬首は六万、遂に宜陽を攻略した。韓の襄王は公仲侈を遣わして謝罪をさせ、秦と和睦した。武王は遂に周に行ったものの、周で亡くなることになった。その弟が即位して昭王になった。昭王の母の宣太后(せんたいごう)は、楚の王女である。

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楚の懐王(かいおう)は以前、秦が楚を丹陽(たんよう,河南省)で破った時、韓が楚を救援しなかったことを怨んでいたので、兵を起こして韓の雍氏(ようし,河南省)を包囲した。韓は公仲侈(こうちゅうし)を使者として、秦に危急を告げさせた。秦の昭王は即位したばかりで、太后は楚人なので、韓の救援に賛成しなかった。公仲は甘茂に頼った。甘茂は韓のために昭王に言った。「公仲は秦が救援してくれると思っていたので、敢えて楚を防いでくれているのです。今、雍氏が包囲されているのに、秦がコウから救援に行かなければ、公仲は絶望して秦の王朝に入朝しなくなってしまうでしょう。公叔(こうしゅく,韓の公子)は、韓を南の楚と合体させてしまうでしょう。楚・韓が一つになれば、魏もそれに加わらないわけはありません。そうなると、秦を伐とうとする形勢が成り立ちます。座して相手から伐たれるのと、こちらから相手を伐つのではどちらに利益があるでしょうか。」

秦王は言った。「良いだろう。」 そして、秦は軍をコウから下して韓を救援した。楚軍は去っていった。

秦は向寿に命令して宜陽を平定させ、樗里子・甘茂に命じて魏の皮氏を伐たせた。向寿は宣太后の一族であり、幼少から昭王と一緒に育った関係だったので、任用されることになったのである。向寿が楚に行った時、楚は秦が向寿を尊重していると聞いて、手厚くもてなした。向寿は秦のために宜陽を守るようになると、進んで韓を伐とうとした。韓の公仲は蘇代(そだい)を送って、向寿に言わせた。「禽獣も追い詰められると車をも覆します。公はかつて韓を破って、公仲を辱めましたが、公仲は韓を収拾して秦に仕え、自分では秦から封ぜられるだろうと思っていましたがまだ封ぜられていません。今、公は楚に解口(かいこう,韓にも近い秦の邑)」を与え、楚の小令尹(しょうれいいん)の官職にある者を杜陽(とよう)に封じました。秦・楚が合体して、再び韓を攻めれば韓は必ず亡びるでしょう。韓が亡びるのであれば、公仲も自ら私兵を率いて秦を防ごうとするでしょう。どうか、熟慮されることをお願いいたします。」

向寿は言った。「私が秦・楚を合体させようとしているのは、韓と対決するためではない。あなたは私のために『秦・韓の国交は和解の余地がある』と公仲にお伝えください。」 蘇代は答えて言った。「私からも公に申し上げたいことがあります。世の人々は『貴きを得る所以を貴ぶ者が貴いのだ』と言います。秦王が公を親愛する強さは、寵臣の公孫セキには及びません。また、公を智恵に優れた者と認める度合いは、甘茂には及びません。しかし今、その二人は秦の国事を預かることはできず、公だけが専ら王と共に国事を裁量なされているのはどうしてでしょうか。このお二人には王の信頼を失う理由があるのです。公孫セキは韓に味方していて、甘茂は魏に与しているので、王は信用なさらないのです。今、秦・楚が強大さを争っていて、公は楚に与そうとしていますが、これは公孫セキや甘茂と同じ道を進むようなことであり、そこにどんな違いがあるでしょうか。

人々は皆、楚が上手く約束を変更して信用できないと言っているのに、公はそんなことは絶対にないと言っています。これでは、公が楚に対する責任を負うことになります。公は秦王と共に楚の変節に対処して、韓と親善して楚に備えるべきであり、そうすれば憂患も無くなるでしょう。韓ははじめ国を挙げて公孫セキに従い、その後甘茂に国事を委ねました。(公孫セキ・甘茂は公にとっての宿敵でしたから)韓は、公の仇というべき国ではあります。しかし、公が韓と親善して楚に備えようと言ってくれれば、自分の仇敵であっても有能ならば適用を避けない徳を外に示すことができます。」

向寿は言った。「確かにその通りだ。私は韓が秦と連合することを強く望んでいる。」 蘇代は答えて言った。「甘茂は、韓の公仲に秦が取った武遂(ぶすい,山西省)の地の返還を約束し、宜陽で捕虜にした人々の返還も約束しました。今、公がこれを無理やりに秦のものにしておこうとしても、難しいでしょう。」 向寿は言った。「それでは、どうしたら良いのだろうか。武遂はどうしても手放すことができない地であるが。」 答えて言った。「公は、どうして秦の力を使って、韓のために潁川(えいせん,河南省)を返すように楚に求めないのですか。潁川は元々は韓の地でしたが、楚に取られたのです。公が楚に要求して取り返すことができれば、秦の命令が楚に対して行われ、更に土地を取り戻して上げたことで韓に徳を及ぼすことにもなります。公が要求して実現できなければ、韓・楚の間の怨恨はなくならず、双方が秦の意を受け容れることになるでしょう。秦・楚が強さを争っている時、公が徐々に楚の罪をとがめて韓を秦に加わるようにしていくことは、秦にとっての利益となるでしょう。」

向寿は言った。「そのために、どうすれば良いのか。」 蘇代は答えて言った。「良い方法があります。甘茂は魏を使って斉を取ろうと欲し、公孫セキは韓を使って斉を取ろうと欲しています。今、公は宜陽を取って功績を上げたのですから、楚・韓を懐柔して安んじて秦に仕えさせ、斉・魏の罪を責めれば、公孫セキと甘茂の思惑は崩れて、秦の国事を主導できなくなるでしょう。」

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甘茂(かんぼう)は、秦の昭王に申し上げて、武遂を韓に返すことにした。向寿・公孫セキはこのことについて論争したが、その説は用いられなかった。二人はそれで甘茂を怨んで讒言した。甘茂は恐れて、魏の蒲阪(ほはん,山西省)を伐つことをやめ、秦から亡命した。樗里子が魏と講和して、停戦した。

甘茂は秦から逃げて斉へと走り、蘇代に会った。蘇代は斉のために秦に使者として赴こうとしていた。甘茂は言った。「臣(私)は秦で罪を得て、誅罰を恐れて逃亡し、落ち着くべき所もありません。臣は、次のような話を聞いたことがあります。貧乏な女と富裕な女とが、同じ場所で糸を紡いでいた時、貧乏な女が『私は燈火を買うことができません。あなたの燈火には幸いにも余りがあります。どうか、その余った光を私に分け与えて下さい。あなたの明るさを損なわずに私は便益を受けることができるのですから。』と。今、臣は困窮していますが、あなたは将に使者として秦に赴こうとしており、政治の要路に当たっています。私の妻子は秦におりますから、どうかあなたの余光で妻子を救ってください。」

蘇代は承諾した。遂に使者としての役割を秦で果たしたが、その後で秦王に説いて言った。「甘茂は優れた人士です。秦に居た頃は、代々の王に重用されました。コウの砦から鬼谷(きこく)に至るまで、その地形の嶮岨について知悉しております。もし彼が斉に韓・魏と盟約を結ばせて、逆に秦を囲もうとすれば、それは秦にとっての利益にはならないでしょう。」 秦王が言った。「それでは、どうすれば良いのか。」 蘇代は言った。「大王は、たくさんの贈り物をして、厚い俸禄(給与)を約束し甘茂を迎えるに越したことはありません。そして、彼がやって来たならば鬼谷に閉じ込めて生涯そこから出さないようにすべきでしょう。」 秦王は言った。「良いだろう。」

秦の昭王は甘茂に上卿の位、宰相の印綬を与えると約束して、斉から迎え入れようとした。だが甘茂は行かなかった。蘇代は斉のビン王に言った。「甘茂は賢人であります。今、秦は彼に上卿の位を賜い、宰相の印綬を約束して迎えようとしました。しかし、甘茂は大王から賜(たまもの)に感謝し、大王の臣下になりたいと思っておりますので、辞退して秦には参りませんでした。今、大王は彼をどのように礼遇なさるおつもりですか。」 斉王は言った。「よろしい。」 甘茂に上卿の位を与えて留まらせた。秦は甘茂の家族を厚遇して、斉と甘茂のことを競り合った。

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