『史記 平原君・虞卿列伝 第十六』の現代語訳:1

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 平原君・虞卿列伝 第十六』の1について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 平原君・虞卿列伝 第十六』のエピソードの現代語訳:1]

平原君趙勝(へいげんくんちょうしょう,趙の恵文王の弟)は、趙の公子の一人である。諸公子の中で勝は最も賢く、賓客(ひんかく)を喜び、その賓客はおよそ数千人にのぼったとも言われる。平原君は、趙の恵文王(けいぶんおう)と孝成王(こうせいおう)の宰相となり、三度、宰相の地位を去ったが、三度再び復帰した。東武城(とうぶじょう,山東省)に封ぜられた。

平原君の家の楼塔が、民家に臨んでいた。その民家に不具者が住んでいて、ひょこひょこと歩いては水を汲んでいた。平原君の美人(仕えている女)が楼塔の上にいて、その不具者を見下ろして、大笑いした。翌日、不具者は平原君の門までやって来て言った。

「私は、あなた様が士が来るのを喜ぶと聞いています。士が千里の道を遠しとせずにあなた様の元へやって来るのは、あなた様がよく士を尊んで妾を賤しく思うからであります。私は不幸にして背中の病(くる病のような遺伝性疾患)に罹っていますが、あなた様の後宮の女で私を嘲笑した者がいます。どうか私を笑った者の首を頂きたいものです。」

平原君は笑って応えて言った。「良いだろう。」 不具の男が立ち去ると、平原君は笑って言った。「あの小僧を見たか、一回笑ったというだけで、私の美人を殺して欲しいと望んでいるのだ。ひどい奴だな。」 遂に平原君は女を殺さなかった。それから一年余りの間に、賓客・門下・舎人で、ぽつぽつと立ち去っていくものが過半に及んだ。平原君はこれを怪しんで言った。「私は諸君の待遇において未だかつて礼儀を失したことがない。それなのに、立ち去っていく者が多いのはなぜなのか。」

門下の一人が前に出て答えて言った。「あなたが不具者を笑った女を殺されなかったので、あなたのことを女色を愛して士を賤しく扱う人物だと思うようになり、それで士が立ち去っていっただけです。」そこで平原君は不具者を嘲笑した女の首を斬り、自ら門まで行ってその首を男に渡して謝罪した。するとその後、門下(食客)は次第に集まってきた。当時、斉に孟嘗君(もうしょうくん),魏に信陵君(しんりょうくん)、楚に春申君(しゅんしんくん)がいて、お互いに競い合っていて士を招いて厚遇していたのである。

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秦が邯鄲(かんたん,河北省・趙の国都)を包囲した時、趙は平原君を楚に派遣して救援を求めさせ、楚と合従(連合)しようとした。平原君は、食客門下の中で勇気があり、文武の徳を兼ね備えた者二十人と同行することを、趙王に約束した。平原君は言った。「言葉の交渉だけで勝てれば、それは良いことです。言葉の交渉が通じなければ、楚の宮殿の下で血をすすり合い、必ず合従の約束を定めてから帰ってきます。同行の士は外(ほか)には求めません。私の食客門下の中から選べば事足ります。」

十九人を選んだが、それ以上は選ぶべき者がなく、二十人に満たなかった。門下に毛遂(もうすい)という者がいて、前に出て、自薦して平原君に言った。「聞くところによると、あなた様は楚と合従の盟約を定めようとされ、あなたの門下二十人と同行することを趙王と約束し、他には士をお求めにならず、今一人足りないということです。どうか遂(私)を人員に加えてから出発してください。」

平原君は言った。「先生は勝(私)の門下になられてから、何年が経ったのか。」 毛遂は言った。「三年が経ちました。」 平原君は言った。「そもそも賢明な士が世の中にいるという状態は、例えば錐(きり)が袋の中にあるようなもので、錐の先が袋を突き破って現れるように、すぐにその才覚が見えるものである。しかし、今、先生は勝(私)の門下に三年もいらっしゃるが、私の左右の側近は先生のことを称揚したことがなく、勝も先生について聞いたことがない。これは、先生に能力がないということである。先生には任務を果たすに足る能力がないのだから、ここに留まっていてほしい。」

毛遂は言った。「私は今日初めて袋の中に入れてくださいとお願いしているのです。もし早くに袋の中に入れて下さっていれば、柄(え)まで突き出していたことでしょう。錐の先っぽが見えただけでは済まなかったでしょう。」 平原君は遂に毛遂を同行させることにした。十九人はお互いに目を見合わせて笑ったが(毛遂のことを軽蔑して笑い合っていったが)、口に出してけなすことまではしなかった。

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毛遂は楚に着くまでの間に、十九人と議論したのだが、十九人はみんな遂に敬服した。平原君は楚と合従しようとして、その利害を説いたが、日の出る頃から議論して正午になっても決まらなかった。十九人は毛遂に言った。「先生も上に上がってください(議論に参加してください)。」

毛遂は剣の柄に手をかけて、急いで階段を駆け上がり、平原君に言った。「合従の利害は、ただ利益と損害の二言(両言)で決まります。今、日の出る頃から合従を議論していて、正午になっても決まらないのはなぜですか。」 楚王が平原君に言った。「あれは何者ですか。」 平原君は言った。「これは勝(私)の舎人です。」 楚王は毛遂を叱って言った。「どうして堂下に下りないのか。私はお前の主君と話しているのだ。お前ごときが出る幕ではない。」

毛遂は剣の柄に手をかけたまま進んで言った。「王が遂(私)をお叱りつけになられるのは、楚国の衆兵を恃んでのことです。しかし今十歩の内の距離では、王は楚国の衆兵を頼りにすることはできません。王のお命は私の手にかかっています。わが君が前におられるのに、それを無視して叱りつけるのは何事ですか。更に、遂は殷の湯王はわずか七十里の地をもって天下の王者となり、周の文王は百里の小国をもって諸侯を臣下にしたと聞いております。これらは、その士卒が多かったからのことではありません。誠によくその勢いに依拠して、その威を奮ったからです。今、楚の地は五千里四方、戟(ほこ)を持つ兵力は百万、これは覇王となるべき資格となります。楚の強大さをもってすれば、天下に敵対できるものはありません。秦の将軍の白起(はくき)は若輩の小僧に過ぎませんでしたが、数万の衆兵を率いて、軍を興して楚と戦い、一戦して焉(えん,湖南省)・郢(えい,楚の国都)を攻略し、再戦して夷陵(いりょう,湖北省)を焼き、三戦して王の先祖の陵廟(りょうびょう)を辱めました。これは楚にとって百世(ひゃくせい)にわたる怨恨であり、趙でさえ楚のために恥じるところのものです。それなのに、王は秦を憎もうとはしないのですか。合従は楚のためであり、趙のためのものではないのです。わが君が前におられるのに、それを無視して叱りつけるとは何事ですか。」

楚王は言った。「分かった分かった。本当に先生のお言葉の通りである。謹んで国家を奉じて合従することにしましょう。」 毛遂は言った。「合従は定まったのですか。」 楚王は言った。「決定した。」 毛遂は楚王の左右の者に言った。「鶏・狗・馬(けい・く・ば)の血を取ってきてください。」 毛遂はその血を入れた銅盤を捧げて、跪いてこれを楚王に差し出して言った。「王はまず血を啜って合従を約束してください。次はわが君、次は遂(私)です。」 そして、遂に殿上において合従を約束した。毛遂は左手に銅盤を持ち、右手で十九人を招いて言った。「あなた達はこの血を堂下で一緒に啜りなさい。あなた達はただゴロゴロしているだけで、所謂(いわゆる)人の力によって物事を為す者に過ぎない。」

平原君は既に合従を約束して帰ったが、趙に帰着すると言った。「勝(私)は再び士の人物の鑑定はしないでおこう。勝が鑑定してきた士の数は、多く見積もって千人、少なくても百人以上である。そして、自分では天下の士たる人物の才覚を見損なったことはないと思い込んでいた。しかし、毛先生の才覚は見損なっていたのだ。」毛先生は一度楚に至ると、趙の権威をあの九鼎(きゅうてい)や大呂(周の廟にある大鐘)よりも重いものとした。毛先生は三寸の舌を用いたのだが、その力は百万の軍よりも強大であった。勝は二度と人物の鑑定はしないでおこう。」 そして、毛遂を上客としたのである。

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