『史記 蒙恬列伝 第二十八』の現代語訳:2

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 蒙恬列伝 第二十八』の2について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 蒙恬列伝 第二十八』のエピソードの現代語訳:2]

子嬰(しえい)が二世の前に進んできて諌めて言った。「臣(私)が聞くところによると、元の趙王遷(せん)はその良臣の李牧(りぼく)を殺して顔聚(がんしゅう)を用い、燕王喜(き)はひそかに荊軻(けいか)の謀略を取り上げて秦との盟約に背き、斉王建(けん)は幾代にもわたる忠臣を殺して后勝(こうしょう)の進言を用いました。これら三人の君主は、みな、それぞれ古きを変えたためにその国を失い、殃(わざわい)がその身に及んだのであります。今、蒙氏は秦の大臣であり智謀の士であります。陛下はあっさりとこれを棄て去ろうとしておられますが、私はひそかにいけないことだと考えております。臣はまた『軽率な考えでは国を治めることはできず、一人の智慧では君主を守りぬくことはできない』と聞いております。忠臣を誅殺して節義のない人物をお立てになれば、内において群臣をお互いに信じられなくして、外においては闘士の心を離反させてしまうのです。私はひそかにこれではダメだと思っているのです。」

胡亥はこの進言を聴き入れなかった。御史の曲宮に命じて、駅伝車を乗り継いで代に行き、使者を通して蒙毅に命じて言った。「先帝が朕を太子に立てようとした時、卿はこれを非難した。今、丞相は卿は不忠であり、罪は一族に及ぶと判断した。朕はそこまでの断罪は忍びないので、卿だけに死を賜うことにする。幸甚と思えて、卿自ら決断せよ。」

蒙毅は答えて言った。「臣(私)が先帝の意思を理解していなかったというお疑いであれば、私は年少の頃から先帝にお仕えし、崩御の時まで巡幸に従っていたのです。だから私は先帝の意思を知っていたと思います。私が太子の才能を認めていなかったというお疑いであれば、諸公子のうちで太子だけが先帝に従って天下を巡遊されたのであり、その才能が諸公子の中で特に優れておられたのは、私にとって疑う所がないものでございました。そもそも先帝が今の陛下を太子にしようとされたのは、数年来のご希望であり、臣(私)ごときが敢えて諫言できるものではありませんし、何か敢えて謀略を巡らせることなどもございませんでした。これは敢えて言葉を飾って死を免れようとしているのではありません、先帝の名誉に累を及ぼしたくないからなのです。

願わくば大夫(曲宮)にはご考慮頂いて、真実の罪によって死を得たいものです。かつまた功なって身の全きは道の尊ぶべきところであります。刑罰によって殺されるのは、道の末なのです。昔、秦の繆公(ぼくこう)は三人の良臣を殺し、百里奚(ひゃくりけい)を死罪にしましたが、その人たちには罪はありませんでした。だから『繆(びゅう,あやまる)』と諡(おくりな)をされたのです。また秦の昭襄王(しょうじょうおう)は武安君・白起(はくき)を殺し、楚の平王は伍奢(ごしゃ)を殺し、呉王夫差は伍子胥(ごししょ)を殺しました。この四人の君主はみな大きな過ちを犯したので、天下は非難し、不明の君主として、諸侯はその悪を史書に書き残されているのです。だから、『道理によって治める者は罪なき者を殺さず、罪は罪なき者には加えられない』と言われているのです。どうか大夫にはお心に留めて頂きたいものです。」

使者は胡亥の意思(蒙毅を殺したい旨)を知っていたので、蒙毅の言葉を聴き入れず、遂にこれを殺した。

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二世皇帝はまた使者を陽周に送って、蒙恬に命令を伝えさせて言った。「あなたの過失は多い。卿の弟の蒙毅には大罪があり、法からすればその罪はあなたにも及ぶものである。」 蒙恬は言った。「私は先祖からその子孫に至るまで、三代にわたって秦に功を重ねて信を積んでまいりました。今、臣(私)は三十余万の兵の将軍であり、囚われの身といえども、その勢力は秦に背こうと思えば背くに足るだけのものです。しかし、必ず殺されると知りながら、義を守って獄につながれているのは、先祖の教えを辱めようとはせず、先帝のご恩を忘れてはいないからです。

昔、周の成王(せいおう)が即位した当初、まだ襁褓(むつき=おむつ)を離れていなかったので、その叔父の周公旦(しゅうこうたん)が王を背負って朝廷に臨み、遂に天下を定めました。成王が病気になって危険な状態になった時、周公旦は自らその爪を切り、黄河に沈めて言いました。『王はまだ幼くて何も識り(しり)ません。私が代わりに事を行っております。もし罪があれば私が殃(わざわい)を受けましょう。』 これを書いて記府(記録を収める倉庫)に収めました。信というべきでしょう。成王が大きくなって国を治めることができるようになってから、賊臣がいて言いました。『周公旦は久しい以前から反乱を起こそうとしています。もし王が防備をされなければ、大事に至るのは必定です。』 王は大いに怒って、周公旦は楚に出奔しました。

成王は記府を調べて周公旦が沈めた書を見つけ、涙を流して言いました。『誰が周公旦が反乱を起こそうとしているなどと言ったのか?』 この讒言を言っていた者たちを殺して、周公旦を呼び戻しました。そのために、『周書』には『必ず参にしてこれを伍にす(物事は熟慮してから決めるべき)』とあるのです。今、私の一族には代々二心を抱くものがいなかったのに、急にこのような事態となりましたが、これは必ず姦臣が反乱を起こして皇帝を凌ごうとしているからです。あの成王は過失を犯しても正道に立ち返ったので、遂に栄えたのです。桀王は関龍逢(かんりゅうほう)を殺し、紂王(ちゅうおう)は王子・比干(ひかん)を殺して悔いなかったので、身は死んで国は亡びたのです。

だから、『過失は正すべく、諫言を受けては覚るべき』と申し上げているのです。よく考えて物事を洞察するのは、聖君の法です。私がこのように申し上げたのは、咎(とが)を免れようとしてのことではありません。お諌めしてから死のうと思っているのです。願わくば陛下には万民のために道理に従われる政治を行われてください。」

使者は言った。「臣(私)は詔(みことのり)を受けて法を将軍に執行するだけです。将軍の言葉を上聞しよう(帝にお聞かせしよう)とは思いません。」 蒙恬は深く嘆息してから言った。「臣(私)は天に対する何の罪があって、過ちもないのに死ぬのだろうか。」 暫くしてからゆっくりとした調子で言った。「私の罪は当然、死に当たる。臨トウから遼東に至るまで、長城は一万余里。その途中で、地脈を断ち切らないではいられなかったであろう。これこそ私の(天に対する)罪である。」 そして毒薬を呷って自殺した。

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太史公曰く――私は北辺に行って、直道(九泉から甘泉に通じる道)を通って帰ってきた。その途中で、蒙恬が秦のために築いた長城の要塞、山を掘り崩し谷を埋めて通じさせた直道を見たが、それは本当に人民の労苦を顧みない事業であった。そもそも秦が諸侯を滅ぼした当初、天下の人心はまだ安定せず、負傷者はまだ治癒していなかった。しかし蒙恬は名将でありながら、この時に際して強く諌めようともせず、人民の急を救って、老人を養い孤児を守り育てようともせず、庶民の和を修めることにも務めず、始皇帝の意におもねって土木事業を興して功績を上げたのである。その兄弟が誅を受けたのも道理ではないか、これは(蒙恬自身が言ったとされる)地脈を断ち切った罪などではないのである。

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