『史記 魏豹・彭越列伝 第三十』の現代語訳:2

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 魏豹・彭越列伝 第三十』の2について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 魏豹・彭越列伝 第三十』のエピソードの現代語訳:2]

漢王が彭城で敗れて軍を解いて西に退くと、彭越もその下していた城邑をまたすべて亡って(うしなって)、手兵だけを率いて北上し黄河のほとりに拠点を置いた。漢王の三年(紀元前204年)、彭越は常にあちこちを往来して漢の遊軍となって楚を撃ち、梁の地で楚軍の背後の糧道を断ち切った。漢の四年の冬、項王と漢王とがケイ陽で対峙したが、彭越はスイ陽(すいよう)・外黄など十七城邑を攻めて下した。項王はこれを聞くと、曹咎(そうきゅう)に成皋を守らせて、自ら東に行って彭越が下していた城邑を楚の元にみんな回復した。彭越はその兵を率いて北の穀城(こくじょう,山東省)に逃走した。

漢の五年の秋、項王が南の陽夏(ようか,河南省)で敗走すると、彭越はまた昌邑付近の二十余城邑を下し、十余万斛(こく)の穀物を手に入れて、漢王の兵糧として供給した。漢王はしばしば使者を送って、彭越を召し、力を併せて楚を撃とうと呼びかけたが、彭越は言った。「魏の地は定まったばかりで、なお楚を恐れているので、まだここを去ることができません。」

漢王は楚を追撃したが、項籍(項羽)に固陵(こりょう,河南省)で破られた。そこで留侯(りゅうこう)に言った。「諸侯の兵はやって来ているのに、我が軍に加わらない。どうすれば良いだろうか?」

留侯は言った。「斉王信(韓信)が斉王になったのは、わが君王の本意ではありません。信もまたその地位を堅固だとは思っていません。彭越は元々梁の地を平定して功が多かったのですが、はじめわが君王は魏豹(ぎひょう)が元の魏王の子孫だという理由で、彭越を魏の相国に任命されました。今、豹は死んで後嗣(こうし、あとつぎ)がなく、それに彭越も王になりたいと望んでいますのに、わが君王はなかなか魏王をお決めになられません。この両国をそれぞれ二人(韓信・彭越)に与えて盟約なされば、楚に勝てるでしょう。すなわち、スイ陽より北、穀城までのすべての地に彭相国を王とし、陳より東、海に至るまでの地を斉王信(韓信)に与えるべきなのです。斉王信の生家は楚にあるので、彼の真意は故郷を得たいということにあるのです。わが君王がこれらの地を二人に与えることを許すことができれば、二人は今すぐにも参上するでしょう。もしそれができなければ、事態がどうなるかは分かりません。」

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こうして漢王は使者を彭越の元に送って、留侯の策の通りにすることにした。使者が到着すると、彭越はその全軍を率いて垓下(がいか,安徽省)に会して、遂に楚を破った。五年、項籍が死んだ後、春、彭越を立てて梁王とし、定陶(ていとう,山東省)に都を置かせた。六年、梁王は陳で漢王に朝した。九年、十年とも、長安に来朝した。

十年秋、陳キ(ちんき)が代の地で漢に背いた。高帝は親征して邯鄲(かんたん)に到着し、兵を梁王に徴兵させた。梁王は病気と称して行かず、代わりに部下の将軍に命じて兵を率いて邯鄲に赴かせた。高帝は怒り、使者を送って梁王を責めた。梁王は恐れて、自ら赴いて陳謝しようとした。するとその将軍の扈輒(こちょう)が言った。「王は最初は行かずに、責められてから行こうとしていますが、今行けば捕虜にされてしまうでしょう。ここに至っては、兵を発して謀反を起こすに越したことはありません。」 梁王は聴き入れずに、また病気だと称していた。

梁王はその太僕(官名)を怒って、これを斬りたいと思った。太僕は漢に亡げて(にげて)、梁王と扈輒が謀反を企んでいると告げ口した。こうして高帝は使者を送って、梁王の不意を襲わせ、梁王は捕えられて洛陽に幽囚(ゆうしゅう)された。役人が取り調べをして、謀反の形跡が明白なので、法に従って処刑すべきだとした。しかし高帝は赦して身分を庶民に落として、駅伝車で送って、蜀の青衣(せいい,四川省)に居住させることにした。彭王(彭越)が西の鄭(てい,陝西省)に着いた時、呂后(りょこう)が長安からやって来て洛陽に行こうとしているところに会った。

呂后が道中で彭王を引見すると、彭王は呂后に向かって涙を流し、自ら無罪を主張して、故郷の昌邑に住ませてほしいと願い出た。呂后は許諾して、一行に加えて東の洛陽に着いてから、高帝に言った。「彭王は壮士です。今彼を蜀に移すのは、自ら憂患を残すことになります。誅殺するに越したことはありません。私が謹んでここに連行してまいりました。」 また呂后はその舎人(けらい)に命じて、彭越がまたも謀反を企んでいると告発させた。廷尉(ていい)の王恬開(おうてんかい)は、彭越を一族皆殺しの刑に処したいと奏請した。高帝はこれを裁可した。こうして遂に彭越の一族は皆殺しにされて、その国は除かれたのである。

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太史公曰く――魏豹・彭越は賤しい身分の出身だったが、千里の道を席巻して、南面して孤(諸侯の自称)と称し、敵を殺して勝ちに乗じ、その名声は日毎に高まった。しかし反逆の意志を抱いて敗れると、自決せずに虜囚の身となり、刑戮(けいりく)を被ったが、なぜそうなったのだろうか?中等以上の人物ですら、そのような振る舞いを羞じる(はじる)が、まして王者であればなおさらそうだろう。彼ら二人に他の理由があったのではない。智略が人に優れていて、一身さえ無事であれば大事をも成し遂げられると、一身を失うことを憂えたのである。尺寸の権でも握ることができれば、雲が湧き上がるように勢力を集め、龍が変化するように身を興し、望む好機に会うこともできるだろうと期待し、そのために幽囚の身となっても辞さなかった(自死しなかった)のである。

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