『史記 田タン列伝 第三十四』の現代語訳:1

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 田タン列伝 第三十四』の1について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 田タン列伝 第三十四』のエピソードの現代語訳:1]

田タン(でんたん)は狄(てき)の人で、元の斉王田氏の一族である。タンの従弟の田栄(でんえい)も栄の弟の田横(でんおう)もすべて豪傑で、一族は強盛であり、よく人心を得ていた。

陳勝(ちんしょう)が初めて興って楚王になると、周市(しゅうふつ)に命じて魏の地を略定させた。周市は北上して狄に至り、狄は籠城して守った。田タンは偽ってその奴隷を縛り上げ、若者を従えて狄県の役所に赴き、申し出て奴隷を殺す振りをした。狄の県令に会うと、すぐに県令を撃ち殺し、有力な官吏の子弟を召して言った。「諸侯はみな秦に反いて(そむいて)自立した。斉は古く建てられた国で、私は田氏である。当然、王になるべきである。」 遂に自立して斉王となり、兵を発して周市を撃った。周市の軍は退却したので、田タンは東の斉の地を略定した。

秦の将軍・章邯(しょうかん)が魏王咎(ぎおう・きゅう)を臨済(りんせい,河南省)で包囲し、事態は急を告げた。魏王は斉に救援を請い、斉王田タンは兵を率いて魏を救った。章邯の軍は夜に枚(ばい)をふくんで近づき、攻撃して大いに斉・魏の軍を破り、田タンを臨済の城下で殺した。タンの従弟の田栄は、タンの敗残兵をまとめて、東の東阿(山東省)に走った。

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斉の国人は王の田タンの死を聞くと、ただちに元の斉王建の弟の田仮(でんか)を立てて斉王とし、田角(でんかく)を宰相、田間(でんかん)を将軍として、諸侯の軍を防いだ。

田栄が東阿に敗走すると、章邯が追撃して包囲した。項梁(こうりょう)は田栄の危急を聞くと、ただちに兵を率いて攻撃し、章邯の軍を東阿の城下で破った。章邯は敗走して西に赴き、項梁はこれを追撃した。田栄は斉が田仮を王に立てたことに怒って、兵を率いて取って返し、攻撃して斉王仮を放逐した。仮は楚に逃走し、斉の宰相・田角は趙に逃走した。田角の弟の田間は、これから先の救援を求めるため趙に赴いていたが、そのまま留まって帰ってくることはなかった。田栄は田タンの子の田市(でんし)を立てて斉王とし、田栄が宰相、田横が将軍となり、斉の地を平定した。

項梁は兼ねてから章邯を追撃していたが、章邯の兵力がますます強盛になったので、使者を送って趙・斉に申し入れ、兵を発して共に章邯を撃とうとした。田栄が言った。「楚が田仮を殺し、趙が田角・田間を殺したなら、すぐにも出兵しましょう。」 楚の懐王は言った。「田仮は同盟国の王で、窮して私の元に来たのであり、これを殺すことは不義である。」

趙も田角・田間を殺してまで斉に協力しなかった。斉王は言った。「蝮(まむし)が手を噛めば手を斬り取り、足を噛めば足を斬り落とす。そうしなければ一身を害してしまう(命を落としてしまう)からである。今、田仮・田角・田間の楚・趙における関係は、一身をも亡ぼすものであり、手足を失う憂いだけで済むものではない。どうして殺さないのか?また秦が再び天下に志を得れば、兵を起こした者はその身に噛みつかれるだけでなく、祖先の墳墓にまで噛みつかれることになるだろうに。」 楚・趙はこれを聴き入れなかった。斉は怒って、遂に出兵を承知しなかった。章邯は果たして項梁を敗死させ、楚軍を破った。楚軍は東に敗走し、章邯は更に黄河を渡って趙軍を鉅鹿(きょろく,河北省)に包囲したので、項羽が赴いて趙を救援したが、項羽はこのことによって田栄を怨んだ。

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項羽(こうう)は趙を救ってから、章邯らを降し、西の咸陽(かんよう)を屠って秦を滅ぼした。侯・王を封じるに当たって、斉王田氏を移して改めて膠東(こうとう)で王とし、即墨(そくぼく,山東省)に都を置かせた。斉の将軍・田都(でんと)は項羽に従って共に趙を救援し、そのまま函谷関(かんこくかん)に入ったので、田都を立てて斉王とし、臨シ(山東省)に都を置かせた。元の斉王建の孫に田安(でんあん)という者がいて、項羽が黄河を渡って趙を救援した時に、済水北方の数城邑を降し、兵を率いて項羽に降った。

項羽は田安を立てて済北王(せいほくおう)とし、博陽(はくよう,山東省)に都を置かせた。田栄は項梁にそむき、出兵して楚・趙を助けて秦を攻めることを受け容れなかったので、王になることができなかった。趙の将軍・陳余(ちんよ)も職を失って王となることができなかった。この二人は共に、項王(項羽)を怨んだ。

項王は既に帰国し、諸侯はそれぞれその領国に赴いた。田栄はある人に命じて、兵を率いて陳余を助け、趙の地で項王にそむかせた。更に田栄も兵を発して田都と対戦し攻撃したが、田都は楚に逃走した。田栄はまた斉王市を留めて、膠東(こうとう)に赴かせなかった。市の左右の者が言った。「項王は強暴で、王は当然、膠東に行かれるべきなのです。封領に赴かれないと、必ず危難に陥ります。」 市は懼れて、逃げ出して封領に赴いた。田栄は怒り、追撃して斉王市を即墨(そくぼく)で殺し、引き返して済北王安を攻めて殺した。こうして田栄は自立して斉王となり、ことごとく三斉(膠東・斉・済北)の地を併合した。

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