『史記 麗生・陸賈列伝 第三十七』の現代語訳:4

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 麗生・陸賈列伝 第三十七』の4について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 麗生・陸賈列伝 第三十七』のエピソードの現代語訳:4]

孝恵帝(こうけいてい)の時代に、呂太后が政治を専断して、呂氏一族を王にしたいと考えましたが、大臣や弁舌の才能がある者を警戒しました。陸生(りくせい)は自分の力では論争しても太后の考えを変えられないと考えて、病気と称して官職を辞して自宅にこもりました。そして、好畤(こうじ、陝西省)にある田地が肥えているので、そこに家宅を構えて住もうとしました。

陸生には五人の男子があったので、越に使いをした時にもらった袋入りの財宝を取り出して千金で売り、子たちに二百金ずつ分け与えました。子たちはその二百金で、生業を立てました。陸生はいつも四頭立ての座って乗る馬車に乗り、歌って舞い、琴を弾く侍者十人を従え、百金の価値がある宝剣を帯びて、その子たちに言いました。

「おまえ達に約束しよう。おまえ達の家に立ち寄ったら、私たちと馬に酒と食事を提供しなさい。欲しいままに飲食して十日経ったら、次の子の所へ行こう。おまえ達の誰かの家で私が死んだら、その子が宝剣・車騎・侍者を自分のものにして良い。往来して他の客の所でもお世話になるから、一年のうちでおまえ達の家に立ち寄るのは、二、三回に過ぎないだろう。度々会いすぎるのも新鮮味がないし、長い滞在でおまえ達を煩わせることがないようにしよう。」

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呂太后の時代に、呂氏一族を王にしました。呂氏一族は一手に権力を掌握して、少帝を脅かして劉氏を危うくしようとしました。右丞相・陳平(ちんぺい)はこうした事態を憂慮しましたが、呂氏と争うほどの力はなく、禍(わざわい)が我が身に及ぶことを恐れて、ひっそりと家にこもって心配していました。

陸生が陳平をお見舞いに行って、部屋に入り込んで座りましたが、陳平は深い考え事にふけっていて気づきませんでした。陸生は言った。「何をそんなに深く考えておられるのですか?」 陳平は答えた。「私が何を考えていると思うのか?」 陸生は言った。「あなたは位は上相(じょうしょう)であり、三万戸の食邑(しょくゆう)を持つ侯です。富貴を極めてこれ以上は望むものもありません。それなのに心配されることがあるとすると、呂氏一族の専横と少帝の身の上についての悩みだけでしょう。」

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陳平は言った。「そうなのだ。どうしたら良いのだろうか?」 陸生は言った。「天下が平安なら人々は宰相に注目し、天下が危難にあれば将軍に注目します。将軍と宰相の仲が調和していれば、士人はみんな慕って従うでしょう。士人がみんな慕い寄ってくれば、天下に異変が起こっても権力は分散しません。国家の大計は、まさにお二人(宰相の陳平・将軍の絳侯周勃(こうこう・しゅうぼつ))が掌握されておられるのです。

私はこのことをいつも、太尉の絳侯(こうこう)に話そうと思うのですが、絳侯と私は親しく戯れ合う仲ですので、私の話を軽視して聞かないでしょう。あなたはどうして太尉と親しく交わって手を結ばれないのですか?」

こうして陸生は、陳平のために呂氏を制御するさまざまな方策を立てました。陳平はその計略に従って、ただちに五百金を用意して絳侯のために祝寿の宴を開き、十分に飲食を楽しみました。太尉もまた同様のお返しをしました。この二人が深く手を結んだので、呂氏の陰謀は急速に衰えたのです。陳平はこうして、奴隷百人・車馬五十乗・銭五百万を陸生に贈り、飲食の費用にさせました。陸生はそれを使って、漢の朝廷の公卿たちと交遊して、その名声が広い範囲で高まったのです。

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呂氏一族を誅滅し、孝文帝を擁立した時にも、陸生の果たした役割は大きなものでした。孝文帝は即位すると、誰かを使者として南越に送りたいと望まれました。そこで、陳丞相らは陸生を使者に推薦し、太中大夫(たいちゅうたいふ)に任じて、また尉佗(いだ)のもとに送りました。

陸生は尉佗に(皇帝のみに許された)黄色の車を使うことや命令を制と称することをやめさせて、中国の諸侯並みの行動をするようにさせ、すべて朝廷の意を実現しました。その事績については、「南越語中」に記しています。陸生は遂に天寿を終えて亡くなりました。

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