『論語 為政篇』の書き下し文と現代語訳:2

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孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の為政篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の為政篇は、以下の3つのページによって解説されています。

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[白文]9.子曰、吾与回言終日、不違如愚、退而省其私、亦足以発、回也不愚。

[書き下し文]子曰く、吾回と言る(かたる)こと終日、違わざること愚なるが如し。退きてその私を省れば(みれば)、亦(また)以って発らか(あきらか)にするに足れり。回は愚ならず。

[口語訳]先生がこうおっしゃった。『顔回と一日中話していても、顔回は従順であり私の意見に対する異論や反論をすることがまったくない。まるで愚か者のようである。しかし、私の前から退いて一人くつろぐ顔回をよく見てみると、(私の道を実践する者として)思い当たらせるものがある。顔回は愚か者ではない。』

[解説]顔回(顔淵)とは、孔子が最も深く愛し将来を嘱望した高弟であり、孔子の諸国遊説以前から孔子に師事していた人物である。顔回は、巧言令色を好まず議論で積極的に意見を述べることも殆どなかったが、寡黙な態度を保持しながら内面に徳の高さを感じさせる人物であったという。ここで「発らか(あきらか)」と書き下した部分は、「何かを感じ取らせる・思いつかせる」という意味であり、寡黙で言葉によって智謀を発揮しない顔回の「隠された徳」を、孔子が思いついた(洞察した)という意味に解釈することができる。顔回は孔子よりも早く41歳でこの世を去り、最愛の弟子に先立たれた孔子は深い悲しみに襲われることになった。

[白文]10.子曰、視其所以、観其所由、察其所安、人焉捜哉、人焉捜哉。(「捜」の正しい漢字は表記できないが、「てへん」の代わりに「まだれ」にしたものである)

[書き下し文]子曰く、その以す所(なすところ)を視(み)、その由る所(よるところ)を観(み)、その安んずる所を察すれば、人焉んぞ捜さんや(かくさんや)、人焉んぞ捜さんや。

[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『その人の行動を見て、その人の行動の由来(原因)を観察し、その人の行動を支える信念(思想)を推察するならば、人間はどうやって自分の人柄を隠し通せるだろうか、人間はどうやって自分の人柄を隠し通せるだろうか。いや、隠しおおせることなどできないだろう。』

[解説]人間の本質や人格を見極めるにはどうすれば良いのかを孔子が説いた篇であり、『相手の行動・行動の原因・行動を支える信念』を観察して推察すれば、どのような人間であっても自分の本性を隠しおおせることが出来ないというものである。

[白文]11.子曰、温故而知新、可以為師矣。

[書き下し文]子曰く、故きを温めて新しきを知る、以って師と為すべし。

[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『過去の古い事柄を再び考え、新しい事柄も知れば、他人を教える師となることができるだろう。』

[解説]故事成語の「温故知新」の題材となった論語の文章であり、元々は、煮詰めて冷えたスープ(羹)を温めなおして美味しく飲むように、古い伝統的な知識や教養を考え直して、新しい事柄の理解に役立てよという話である。新しい事柄の意味を正確に知るためには、古典や伝統の正確な理解という基盤が欠かせないという意味でも使われる。古い事柄を再び味わって基礎を固めた後で、新しい事柄を改めて知れば、より奥行きのある実践的な教養知識が得られるということであるが、孔子の言いたいことの本質は、「過去の知識を単純に詰め込むだけでは、人を指導する師にはなれない」ということであったらしい。

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[白文]12.子曰、君子不器。

[書き下し文]子曰く、君子は器ならず。

[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『君子は、(用途の限定された)器ではない』

[解説]「君子は器ならず」は前段の「温故知新の師」とも関わっていて、政治を執行する君子というものは、単一の機能(役割・用途)に限定された「器(専門家)」であってはならず、幅広い視点(教養)と自由な発想を持って社会や情勢を見極められる人物(有徳のゼネラリスト)でなければならないということである。

[白文]13.子貢問君子、子曰、先行其言、而後従之。

[書き下し文]子貢、君子を問う。子曰く、先ず(まず)その言を行う、而して(しこうして)後(のち)これに従う。

[口語訳]子貢が君子について尋ねた。先生(孔子)は答えておっしゃった。『まず言いたい事柄を実行し、その後で、自分の主張を述べる人こそ君子である』

[解説]弁舌爽やかで弟子の中で最も議論に強かったと言われる子貢(しこう)に欠けている部分を、師である孔子がそれとなく優しく指摘した文章である。為政者である君子とはどういう人物なのかと問う子貢に対して、孔子は初めから知識に依拠した主張を行うのではなく、まず自分がその主張に見合った行動をしてから、その後で思想や理論の主張をしなさいと説いた。つまり、言葉だけで有能さを示す「弁舌の徒」では社会からの信用や支持が得られ難いので、自分自身が民衆に期待することを率先垂範して行い「有言実行」をすることが必要だというわけである。

[白文]14.子曰、君子周而不比、小人比而不周。

[書き下し文]子曰く、君子は周しみて(したしみて)比らず(おもねらず)、小人(しょうじん)は比りて周しまず。

[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『君子は、人々と広く親しむが、おもねらない(馴れ合わない)。徳のない小人は、馴れ合いはするが、広く親しむことがない。』

[解説]有徳の君子の交友関係のあり方を孔子が述べたものだが、君子は幅広い人たちと真情から親しみ合うが、特定の人たちだけを優遇するような「なれあい」の交遊は好まないのである。君子は、利害関係に基づいた「おもねり(なれあい)」の交友関係を持たず、天下国家の利益(秩序)に貢献する忠義に基づいた「親愛の情」によって結びついている。反対に、徳がなく私心の強い小人は、お互いの利益を図るための交遊を求め、おもねりや媚びへつらいに満ちたものとされている。

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[白文]15.子曰、学而不思則罔、思而不学則殆。

[書き下し文]子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)。

[口語訳]先生がこうおっしゃった。『物事を学ぶだけで自分で考えないとはっきりしない(本当の知識は身につかない)。自分で考えるだけで師から学ばなければ(独断・独善の弊害が生まれ)危険である。』

[解説]孔子が考える「学ぶこと」の中心は、周代の政治や礼制、倫理の学習であり、基本的に「古代の先王の道」を学ぶことである。孔子が考える「思うこと」の中心は、自分の頭で自発的に考えることである。孔子は「師や書物からの経験的な学習=学ぶこと」と「自分自身の合理的な思索=思うこと」をバランスよく行い、それらを総合することで、正しく有用な知識教養が得られると考えたのである。

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[白文]16.子曰、攻乎異端、斯害也已矣。

[書き下し文]子曰く、異端を攻むるは、これ害あるのみ。

[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『正統な先王(聖人)の道以外の異端の学問を修めることは、益なくしてただ害悪があるだけだ。』

[解説]異端の解釈には二通り考えることができ、一つは口語訳に書いたように孔子が正統な学問であると考えた「周王の道(忠義と礼楽)」以外の「異端の学問」という意味である。もう一つは、織物の両端のことを「異端」とする解釈があり、同時に二つの異端から織物を巻き取れないように、同時に二つ以上の学問を学び取ろうと思っても中途半端に終わって上手くいかなくなると理解することもできる。学術研鑽を行う場合には、まず一つの専門分野に集中したほうが、学問を修めやすいという意味にも読める。

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