『論語 八イツ篇』の書き下し文と現代語訳:2

スポンサーリンク

孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の八イツ篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の八イツ篇は、以下の3つのページによって解説されています。

[白文]10.子曰、蹄自既灌而往者、吾不欲観之矣。(「蹄」の正しい漢字は表記できないが、正しくは「しめすへん」に「帝」である)

[書き下し文]子曰く、蹄(てい)、既に灌(かん)してより往(のち)は、吾これを観るを欲せざるなり。

[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『「蹄(てい)」という祖霊を祀る国の大祭で、祖霊に捧げる神酒(みき)を地面に注いでから後は、私はそれ以上の儀礼を見ようとはしなかった。』

[解説]孔子が魯国の士大夫として仕えていた時、国の大祭である「蹄(てい)」が六代の文公によって行われた。文公は、自分の父親である五代・僖公を四代のビン公よりも高い地位に立てる為に、「蹄(てい)」の礼法に背いて不正に、僖公の祭りの順番をビン公より前にし位牌(木主)の配置も入れ替えたのである。これを見た孔子は、古代から連綿と続く礼法を無視して、都合のよい祭祀を行った文公に憤慨したが、家臣の分を守ってお神酒を注いで以降の儀式を見ないようにしたのである。

[白文]11.或問蹄之説、子曰、不知也、知其説者之於天下也、其如示諸斯乎、指其掌。(「蹄」の正しい漢字は表記できないが、正しくは「しめすへん」に「帝」である)

[書き下し文]或るひと蹄(テイ)の説を問う。子曰く、知らざるなり。其の説を知る者の天下に於ける(おける)や、其れ諸れ(これ)を斯(ここ)に示る(みる)が如きかと。其の掌(たなごころ)を指せり。

[口語訳]ある人が蹄(テイ)の祭祀について尋ねた。先生は言われた。『テイの祭祀については知りません。テイについて理解している者であれば、天下のことについても、それ、ちょうどこれを見るようなものでしょう。』その掌(てのひら)を指さした。

[解説]前段で、孔子は魯国で執り行われた不正なテイの大祭について不満を持っていることが分かったが、孔子は魯国の卿として仕えていたから公式に文公が主宰したテイの大祭が間違っていたと批判することは出来ない。そこで、孔子はある人(ある為政者)からテイについて問われると、「祖霊をお祭りするテイについて正確に理解しているならば、それは天下国家が掌中にあるも同然である」と機知の効いた回答を返したのである。

[白文]12.祭如在、祭神如神在、子曰、吾不与祭、如不祭。

[書き下し文]祭るに在す(います)が如くし、神を祭るに神在すが如くす。子曰く、吾祭に与ら(あずから)ざれば、祭らざるが如し。

[口語訳]先祖の祭礼には先祖が正にそこに居られるようにし、神々の祭儀には神々が正にそこに居られるようにする。先生は言われた。『私は祭礼に実際に参加(臨席)していないと、祭礼をしなかったような感じがする。』

[解説]古代中国の儒教は、秩序を維持する道徳規範であると同時に、祖先崇拝のアニミズム的な宗教としての側面を持っていた。自分と血縁のある祖先は死ぬと「鬼」になって祭儀の場に戻ってくるが、自分と直接の血縁関係や親類関係にない先人は「神」になって祭儀の場に降臨する。畏敬すべき鬼神を真心からお祭りする為には、その祭礼の場に祖先や先人が本当にやってきているかのような敬虔な気持ちでお祭りして祈る必要がある。

スポンサーリンク

[白文]13.王孫賈問曰、与其媚於奥、寧媚於竈、何謂、子曰、不然、獲罪於天、無所祷也。

[書き下し文]王孫賈(おうそんか)問うて曰く、其の奥(おう)に媚びんよりは、寧ろ(むしろ)竈(そう)に媚びよとは、何の謂(いい)ぞや。子曰く、然らず。罪を天に獲れば(うれば)、祷る(いのる)所なきなり。

[口語訳]王孫賈が尋ねて言った。『部屋の奥の神の機嫌を取るより、竈(かまど)の神の機嫌を取れという諺(ことわざ)は何を意味しているのでしょうか?』先生は言われた。『そうではない。至高の天に対して罪を犯したならば、何処にも祈る場所などはないのです。』

[解説]衛の霊公の大臣であった王孫賈は実力で霊公を圧倒して、事実上、衛の政権を掌握していた。孔子は衛に亡命したのだが、その時に実力者の王孫賈を無視して、正統な君主である霊公に丁重な挨拶をしにいった。これに憤慨した王孫賈は、『部屋の奥の神の機嫌を取るより、竈(かまど)の神の機嫌を取れ』という諺(ことわざ)を引いて、『名目上の君主である霊公』ではなく『実質上の君主である王孫賈(自分)』に断りを入れるほうが孔子の利益になることを説こうとした。しかし、周の礼制を尊ぶ孔子はその不正な申し出を断り、『至高の天(正統な身分秩序)』に逆らえば、誰に祈っても全ては無意味なことであると説いたのである。天命思想や王政復古を前提とする儒教では、家臣が君主の身分を実力で簒奪する下克上(謀反・反乱)を極めて厳しく非難する。

[白文]14.子曰、周監於二代、郁郁乎文哉、吾従周。

[書き下し文]子曰く、周は二代に監み(かんがみ)、郁郁乎(いくいくこ)として文なるかな、吾は周に従わん。

[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『周の礼制は夏・殷の二代を模範とし、咲き誇り良い香りのする花の如く美しいものである。私は周の礼制(伝統)に従おう。』

[解説]孔子が、最高に優れた文化と儀礼を持った時代と考えていたのは「周王朝(魯の先祖が建国した国)」の時代である。特に孔子が尊敬していたのは、殷周革命を実現した武王に仕え、武王の子・成王に大政奉還した周公旦(しゅうこうたん)であったと言われる。何故なら、太公望呂尚と共に武王を補佐した周公旦は、周の政権を取ろうと思えば取れた立場にありながら、その実権を自ら進んで主君である成王に返還(大政奉還)したからである。下克上が相次ぐ混乱した春秋時代に、孔子が目指した理想の政治は、突き詰めれば、伝統的な「周礼」に還ることであり、正統な君主に政権を返す「王政復古」の実現であった。周礼に還る政治とは、人民の礼節と為政者の徳性によって国家を治める徳治政治へとつながる。

[白文]15.子入大廟、毎事問、或曰、孰謂聚人之知礼乎、入大廟、毎事問、子聞之曰、是礼也。(「聚(スウ)」の正しい漢字は、「聚」の右に「おおざと」を書いたものである。)

[書き下し文]子(し)大廟に入りて、事ごとに問う。或るひと曰く、孰か(たれか)スウ人の子(こ)を礼を知ると謂うや、大廟に入りて、事ごとに問えり。子これを聞きて曰く、是れ礼なり。

[口語訳](魯の役人時代に)先生は大廟に入って儀礼を一つ一つ尋ねられた。ある人が言った。「誰が、スウの田舎から出てきた役人(孔子)が礼を知っているなどと言ったのだ?あいつは、大廟の中で儀礼について一つ一つ尋ねているぞ。(あいつは何も礼について知らないではないか。)」先生はそれを聞いておっしゃられた。「それ(前任者に一つ一つ丁重に質問をすること)が礼なのだよ。」

[解説]古代の礼制について詳しいという評判のあった孔子が、魯で役人として勤めていた時代に、『あいつは、前任者に大廟の儀礼や作法について事々に細かく質問しているじゃないか。礼について詳しいというが何も知らないじゃないか。』と揶揄され軽侮されたことがあった。その噂について孔子は、礼節とは、知らないことを知っていると言って優越感に浸ることではなく、前任者(その道の先達)に敬意を払って、丁重に教えを乞う謙虚さこそが礼の道だと語ったのである。相手を見下す傲慢不遜な態度や知的優越感に浸る姿勢こそが、もっとも礼から遠い振る舞いであることを示した印象的なやり取りである。

[白文]16.子曰、射不主皮、為力不同科、古之道也。

[書き下し文]子曰く、射(しゃ)は皮(まと)を主とせず。力の科(しな)を同じくせざるが為(ため)なり。古(いにしえ)の道なり。

[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『射礼(弓道)は、皮の的を射抜くことを第一としない。射る人の生来の能力には等級があり同じではないからだ。これが古代の聖王の実践した道(やり方)である。』

[解説]「射不主皮、為力不同科」とは古代から連綿と語り継がれてきた弓道の本質を語る言葉であり、孔子はこの弓道の精神を礼に適う素晴らしいものだと評価していた。つまり、人間には生まれながらに膂力や視力の差があるのだから、弓道の良し悪しは射抜いた的の数ではなく、弓を構えて射撃する態度や振る舞いで決まるという古代から続く聖王の礼制を賞賛した文章である。

[白文]17.子貢欲去告朔之餽羊、子曰、賜也、汝愛其羊、我愛其礼。(餽(き)の正しい漢字は、「食」の偏に「気」である。)

[書き下し文]子貢(しこう)、告朔(こくさく)の餽羊(きよう)を去らんと欲す。子曰く、賜(し)よ、汝(なんじ)は其の羊を愛しむ(おしむ)も、我は其の礼を愛しむ(おしむ)。

[口語訳]子貢が、生きた羊を宗廟へ犠牲として捧げる毎月一日(朔日)の魯の儀式を、(貴重な食糧の羊がもったいないということで)廃止しようとしたことがある。先生は言われた。『子貢よ、お前は犠牲に捧げる羊が惜しいのだろうが、私は羊を惜しんで失われる礼のほうが惜しいと思う。』

[解説]魯の財政政策に辣腕を振るった議論第一の子貢は、魯の宗廟へ一日が来たことを知らせる為に捧げる「生きた羊」がもったいないと思い、財政緊縮のために羊を犠牲にする儀礼を廃止しようとした。現実主義者である子貢にとって、食べるわけでもないのに羊を無意味に殺すことは無駄以外の何ものでもなかったが、過去から続く伝統を大切にする保守主義者の孔子は、儀式の安易な廃止に異論を唱え「過去の儀礼(祖先への畏敬)を守る」ことが礼の現れであると語った。

スポンサーリンク

[白文]18.子曰、事君尽礼、人以為諂也。

[書き下し文]子曰く、君に事えて(つかえて)礼を尽くせば、人以て諂えり(へつらえり)と為す。

[口語訳]先生が言われた。『君主に仕えるに当たって礼の義務を尽くせば、人はそれを君主のご機嫌取り(へつらい)だという。』

[解説]主君を蔑ろにして政権を専横していた魯の三家老(孟孫・叔孫・季孫)を孔子は嫌い、正統な主君である定公に礼を尽くしてお仕えした。しかし、実力者である三家老に肩入れしている人の多い魯では、孔子は「君主のご機嫌を取って出世を狙っている人物」と見なされることもあった。孔子の礼や忠の中心は、「君臣の義を明らかにすること」にあるといっても過言ではない。

Copyright(C) 2004- Es Discovery All Rights Reserved