『論語 公冶長篇』の書き下し文と現代語訳:3

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孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の公冶長(こうやちょう)篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の公冶長篇は、以下の3つのページによって解説されています。

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[白文]20.季文子三思而後行、子聞之曰、再思斯可矣。

[書き下し文]季文子、三たび思いて而る(しかる)後に行う。子、これを聞きて曰く、再び思えば斯ち(すなわち)可なり。

[口語訳]季文子(きぶんし)は三度考えてから実行した。先生がこれを聞いて言われた。『二度考えてみて結論がでれば、それで良いのである。』

[解説]季文子とは、孔子の前時代の魯国の宰相であるが、晋国への使者の役目をおおせつけられて、出立するまでに三度考えて、晋の礼制を万全に理解してから出発したという。孔子はこれを聞いて、三度まで考え直して決断するほど優柔不断であるべきではなく、二度しっかりと考え直して結論がでればそれに従えば良いとしたのである。

[白文]21.子曰、寧武子、邦有道則知、邦無道則愚、其知可及也、其愚不可及也。

[書き下し文]子曰く、寧武子(ねいぶし)、邦(くに)に道あるときは則ち知。邦に道なきときは則ち愚。その知は及ぶべきなり、その愚は及ぶべからざるなり。
(「寧」の正しい漢字は、「うかんむり」に「心」に「用」と書く。)

[口語訳]先生が言われた。『寧武子は、国に道のあるときは智者で、国に道のないときは愚かであった。その智者ぶりは真似ができるが、その愚か者ぶりは真似ができない。』

[解説]孔子が生まれる前の紀元前7世紀前半、衛の名宰相であった寧武子(ねいぶし)は、衛の君主の座を巡る内乱を収拾した人物として知られる。寧武子は、賢者として抜群の知略を振るうこともあったが、愚者のふりをして空とぼけをすることもあったと伝えられる。そこで、孔子は寧武子の賢人ぶりは真似したいものだが、愚者のふりをしたとぼけた振る舞いはなかなか真似できないと語ったのである。

[白文]22.子在陳曰、帰与帰与、吾党之小子狂簡、斐然成章、不知所以裁之也。

[書き下し文]子、陳に在りて曰く、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子、狂簡(きょうかん)にして、斐然(ひぜん)として章を成す。これを裁する所以(ゆえん)を知らざるなり。

[口語訳]先生は陳の国でいわれた。『帰ろうよ、帰ろうよ。私の学校(教団)の若者たちは志ばかりが大きく、瞳には美しい模様を織りなしているが、どのように裁断したらよいか分からないでいる。』

[解説]「狂簡(きょうかん)」とは、「狂」が志が非常に大きく威勢が盛んなこと、「簡」が気質に大きな偏りがあり起伏に乏しいことである。「斐然(ひぜん)」とは、色彩が豊かで美しい模様を描いている様子である。孔子が政治改革に失敗して亡命しているときに語った言葉であり、故郷を懐かしく思い出して望郷の念に駆られると共に、教団に残してきた若い生徒達の行く末と教育を心配している。

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[白文]23.子曰、伯夷叔斉不念旧悪、怨是用希。

[書き下し文]子曰く、伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)、旧悪を念わず(おもわず)。怨み是(ここ)を用て(もって)希(まれ)なり。

[口語訳]先生がいわれた。『(周の殷に対する放伐に反対した伝説の忠臣である)伯夷・叔斉は、(不忠不義を許さぬ清廉な人柄だったが)古い悪事をいつまでも気にかけなかった。だから、人から怨まれることがほとんどなかった。』

[解説]伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)というのは、暴君の紂(ちゅう)が殷(商)の帝となっていた時代の伝説的な忠臣である。酒池肉林の悪政に耽る紂の元を去って、新興国の周の武王に従ったが、武王が武力で殷(周)を討伐しようとすると、武力で暴慢を諌める放伐(ほうばつ)に強く反対した。伯夷と叔斉は、暴力的な放伐ではなく平和的な禅譲(ぜんじょう)によって、天子の位を引き継ぐのが天の道理だと考えていたので、周が武力で天下に号令をかけると周の粟(ぞく)を食べることを拒否して、首陽山(しゅようざん)に隠棲しそこで遂に餓死してしまったという。

[白文]24.子曰、孰謂微生高直、或乞醯焉、乞諸其鄰而与之。

[書き下し文]子曰く、孰(たれ)か微生高(びせいこう)を直(ちょく)なりと謂う。或るひと醯(す)を乞う。諸(これ)をその鄰(となり)に乞いてこれに与う。

[口語訳]先生が言われた。『誰が微生高を正直(まっすぐ)だなどと言ったのだ。ある人が微生高に酢をもらいに行ったら、彼は隣家から酢を貰ってその人に与えたではないか。』

[解説]微生高がまっすぐに正直に生きているという評判を聞きつけた孔子は、微生高が酢を求められた際に、正直に「持っていない」と答えずに隣家から貰ってその人に上げたことを批判的に見ている。功利主義的な観点では、「持っていない」と正直に答えるよりも、隣家から酢を借りて欲しい人に与えるほうが合理的だが、孔子は「持っていないのに、持っていたように見せかけた」という意味で微生高の「直」の徳を低く見たのであろう。

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[白文]25.子曰、巧言令色足恭、左丘明恥之、丘亦恥之、匿怨而友其人、左丘明恥之、丘亦恥之。

[書き下し文]子曰く、巧言・令色・足恭(すうきょう)は、左丘明(さきゅうめい)これを恥ず、丘もまたこれを恥ず。怨みを匿(かく)してその人を友とするは、左丘明これを恥ず、丘もまたこれを恥ず。

[口語訳]先生がいわれた。『弁舌が巧み・表情が豊か・やたらに腰が低いというのは、左丘明は恥ずべきことと考えた。丘(孔子)もやはり恥とする。怨みの気持ちを隠してその人と友人になるのは、左丘明は恥と考えた。丘もやはり恥とする。』

[解説]左丘明は、孔子が敬意を抱いていた人物の一人であるが、詳細は不明である。孔子は言葉が上手くて容姿や表情が演技がかっている「巧言令色」を嫌い、巧言令色によって他人の好意を得ようとする人には「仁」が少ないとまで言っている。過度にうやうやしくて、お世辞やご追従ばかりする人物も信用ができない。また、孔子は左丘明と同じく、自分の内面にある憎悪や嫌悪を押し隠して接近し、うわべだけ仲良くするような人物は恥を知らないと考えたのである。

[白文]26.顔淵季路侍、子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣裘、与朋友共敝之而無憾、顔淵曰、願無伐善、無施労、子路曰、願聞子之志、子曰、老者安之、朋友信之、少者懐之。

[書き下し文]顔淵(がんえん)・季路(きろ)侍す(じす)。子曰く、盍ぞ(なんぞ)各々爾(なんじ)の志を言わざるや。子路曰く、願わくは車馬衣裘(いきゅう)を、朋友と共にし、これを敝(やぶ)りて憾(うら)みなからん。顔淵曰く、願わくは善に伐る(ほこる)ことなく、労を施すことなからん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老者には安んじられ、朋友には信じられ、少者には懐かしまれん。

[口語訳]顔淵と季路とがお側に仕えていた。先生はいわれた。『それぞれお前達の志を話してごらん。』子路は言った。『車や馬や着物や毛皮の外套(がいとう)を友人と一緒に使って、それが痛んだとしても、気にしないようにしたいものです。』顔淵は言った。『善い行いを自慢せず、辛いことを人に押し付けないようにしたいものです。』子路が言った。『出来るならば、どうか先生の志望をお聞かせ下さい』先生は答えられた。『老人には安心され、友達には信用され、若者には慕われるようになりたいものだね。』

[解説]孔子の志望と孔子の高弟である顔淵と子路の志望が語られた章であり、『万人に役立つ人間でありたい』とする孔子の素朴で実直な志が窺われる部分である。子路の理想は共産主義的で、私欲を廃して自分の所有物にこだわらない鷹揚な貴族の気概を語っている。顔淵の理想は善行を矜持として傲慢になることなく、他人の苦労や重荷を肩代わりしてあげたいとする「仁」の気迫に満ちたものである。

[白文]27.子曰、已矣乎、吾未見能見其過而内自訟者也。

[書き下し文]子曰く、已んぬるかな(やんぬるかな)。吾未だ能くその過ちを見て内に自ら訟むる(せむる)者を見ざるなり。

[口語訳]先生が言われた。『この世も最早ここまでか。私はまだ自分の過ちを認め、内面で自分を責めることができる人物を見たことがない。』

[解説]春秋末期に風俗が乱れ、自分の利益や出世ばかりを追い求める人材が栄耀栄華をほしいままにしだしてしまった。そういった憂うべき天下の窮状を見て、孔子は嘆息し「やんぬるかな(もうこの世はおしまいだ)」と言葉にしてしまったのである。自分自身の過失や責任を認めることなく、罪悪感を痛感する良心を失ってしまった人間ばかりになると、社会が混乱し仁の思いやりが摩滅いってしまうということを憂慮した部分である。

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[白文]28.子曰、十室之邑、必有忠信如丘者焉、不如丘之好学也。

[書き下し文]子曰く、十室の邑(ゆう)、必ず忠信、丘の如き者あらん。丘の学を好むに如かざるなり。

[口語訳]先生が言われた。『10戸しかない村里にも、目上の者に忠実で、約束を裏切らない忠信において、丘(私)と同じくらいの者はいるだろう。ただ、丘の学問を好むということに及ばないだけだ。』

[解説]孔子が、10軒ほどしか家のない小さな村落であっても、自分と同じくらいに君主や礼に忠実で、一度交わした約束を破らない忠信の人材はいるに違いないと謙遜の言葉を述べている。その一方で、自分ほどに向学心と知的好奇心を持った人物は、そうそういるものではないという矜持を語っているのである。

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