『論語 述而篇』の書き下し文と現代語訳:4

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孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の述而篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の述而篇は、以下の3つのページによって解説されています。

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[白文]29.子曰、仁遠乎哉、我欲仁、斯仁至矣。

[書き下し文]子曰く、仁遠からんや、我仁を欲すれば、斯ち仁至る。

[口語訳]先生が言われた。『仁は遠い場所にあるのだろうか?いや、私が仁を本気で求めるのであれば、仁はすぐにでもここにやってくるだろう。』

[解説]孔子は、壮年期には『仁徳の実践』を非常に高邁で困難なものだと考えていた。しかし、年を経て経験と知識を積み重ねる中で、『仁徳の実践』は高尚な特別のものではなく、心がけしだいですぐに実践できるもの、身近な他者に思いやりの心を持つことだと考えるようになったのである。

[白文]30.陳司敗問、昭公知礼乎、孔子曰、知礼、孔子退、揖巫馬期而進之曰、吾聞、君子不党、君子亦党乎、君取於呉、為同姓、謂之呉孟子、君而知礼、孰不知礼、巫馬期以告、子曰、丘也幸、苟有過、人必知之。

[書き下し文]陳の司敗(しはい)問う、昭公は礼を知れるか。孔子対えて(こたえて)曰く、礼を知れり。孔子退く。巫馬期(ふばき)を揖(ゆう)してこれを進ましめて曰く、吾聞く、君子は党せずと。君子もまた党するか。君、呉に娶れり(めとれり)。同姓なるが為に、これを呉孟子(ごもうし)と謂う。君にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知らざらん。巫馬期、以て告ぐ。子曰く、丘や幸いなり、苟しくも(いやしくも)過ちあらば人必ずこれを知る。

[口語訳]陳国の司敗(司法長官)が孔子にお尋ねになられた。『あなたの国の昭公は礼を知っているのか?』。孔子は、お答えになった。『礼を知っています。』。孔子が退出すると、司法長官は巫馬期に会釈して前に進ませて語った。『私は、君子は仲間集団を作らないと聞いていたが、君子でも仲間集団をつくって自分の君主を良くいうことがあるのか?昭公は、呉国から夫人をめとったが、同じ姓だったので(それを隠蔽するために)呉孟子と呼びかえられた。もし、昭公が礼を知っているというならば、この世の中に礼を知らない人などがいるのだろうか?』。巫馬期はこの話を孔子に伝えた。孔子は言われた。『私は幸せものである。もし、私が過ちを犯せば、誰かがそれに気づいてくれるのだから。』

[解説]孔子が陳国に滞在した時に、陳国の司法長官から『魯国の昭公は、礼を修めているのか?』と聞かれ、孔子は昭公は礼を知っていると答えた。しかし、後になって、昭公が同姓の家柄から妃をめとっているということを巫馬期から聞き、自分の間違いを率直に反省したという章句である。古代の儒教の道徳規範では、同姓の氏族から嫁を迎えることは、道徳のない禽獣に等しい野蛮な行いと考えられていた。

[白文]31.子与人歌而善、必使反之、而後和之。

[書き下し文]子、人と歌いて善きときは、必ずこれを反さしめて(くりかえさしめて)、而して(しかして)後これに和す。

[口語訳]先生が他人と一緒に歌っていて、良い曲がある時には必ずもう一度歌ってもらう。その後で、一緒になってその歌を唱和する。

[解説]孔子の音楽や歌の楽しみ方について触れた章句である。

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[白文]32.子曰、文莫吾猶人也、躬行君子、則吾未之有得也。

[書き下し文]子曰く、文は吾猶(なお)人のごとくなること莫からんや(なからんや)。躬(み)をもって君子を行わば、則ち吾未だこれを得るあらざるなり。

[口語訳]先生が言われた。『机上の学問であれば、私は人並みに出来ないということはないだろう。しかし、実際に自分の身体を使って君子のような行動をしようとすれば、私はまだまだ君子の道を修得できていない。』

[解説]孔子は、『書籍を通した学問』と『実生活の中での徳行』のどちらも重視したが、やはり文字を読んで理解する学問を、実際の生活や政治に活かすことはとても難しいと感じていたのである。

[白文]33.子曰、若聖与仁、則吾豈敢、抑為之不厭、誨人不倦、則可謂云爾已矣、公西華曰、正唯弟子不能学也。

[書き下し文]子曰く、聖と仁との若き(ごとき)は、則ち吾豈(あに)敢えてせんや。抑も(そもそも)これを為して厭わず、人を誨えて(おしえて)倦まずとは、則ち謂うべきのみ。公西華(こうせいか)曰く、正にこれ弟子(ていし)の学ぶ能わざるなり。

[口語訳]先生が言われた。『聖と仁の道というような話になると、どうして私にそれが実践できるだろうか。(いや、できない)。しかし、その道を学んで飽きることがなく、他人を教えていやにならないという意味であれば、できるといっていいだろう。』。公西華が言った。『正にそれこそが、私を含む弟子たちができないことなのです。』

[解説]孔子は、聖と仁の道を究極的に修得することは自分自身でも恐らく不可能だと感じていたが、そういった聖人と仁徳の道徳を飽きる事なく学び続け、その内容を他人に伝えることであればできると考えていた。それを弟子の公西華に伝えたところ、『先生は簡単に言っておられるが、学んで飽きない、教えて退屈しないということは、凡人である私たち弟子にはなかなか出来ない』と語ったのである。

[白文]34.子疾病、子路請祷、子曰、有諸、子路対曰、有之、誄曰、祷爾于上下神祇、子曰、丘之祷久矣。

[書き下し文]子、疾む(やむ)。子路祷らんことを請う。子曰く、諸(これ)有りや。子路対えて曰く、有り、誄(るい)に曰く、爾(なんじ)を上下の神祇(しんぎ)に祷ると。子曰く、丘の祷ること久し。

[口語訳]先生が病気になられた。それを見た子路が祈祷をしたいとお願いした。先生が言われた。『そんな先例があるか?』。子路はお答えした。『あります。君主から死者に与える追悼の言葉に「あなたのことを、天神地祇に祈祷する」とあります。』。先生がおっしゃった。『そうであれば、私は久しく天神地祇にお祈りしているよ。(だから、改めて祈祷する必要などない)。』

[解説]この病気は孔子の死の原因となる病気ではなかった。子路が先生が病状にあることを知って心配し、『ぜひ、病気平癒のためのお祈りをさせてください』と申し出たが、孔子は祈祷の内容を聞き『自分は既に常日頃から天神地祇にお祈りしているので必要ない』と答えたのである。

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[白文]35.子曰、奢則不孫、倹則固、与其不孫也、寧固。

[書き下し文]子曰く、奢れば則ち不遜、倹なれば則ち固し(いやし)、その不遜ならんよりは寧ろ(むしろ)固しかれ。

[口語訳]先生が言われた。『過度に贅沢な生活をしていると、態度が不遜(傲慢)になる、反対に、倹約し過ぎる物惜しみの生活をしていると、態度が自然に卑賤(卑屈)になる。しかし、傲慢であるよりは卑屈なほうがまだいいだろう。』

[解説]孔子は、豊かなライフスタイルや貧しいライフスタイルが人間の精神的態度に与える影響を深く理解していた。贅沢でわがままな生活をしていると、他人の苦しみを思いやれない傲慢不遜な人間になる恐れがあるが、反対に、物惜しみの節約をして貧しい生活をし過ぎると、自尊心が磨り減った卑屈で自信のない人間になる恐れがある。孔子は、程よい贅沢と程よい節約のできる『中庸の徳』を説いているのである。

[白文]36.子曰、君子坦蕩蕩、小人長戚戚。

[書き下し文]子曰く、君子は坦として蕩蕩(とうとう)たり、小人は長く戚戚(せきせき)たり。

[口語訳]先生が言われた。『君子は心穏やかでのびのびとしている。小人はいつでもせこせことして落ち着きがない。』

[解説]孔子が大人としての君子の気持ちのありようと、小人の落ち着きのない態度とを簡潔に比較して述べた部分である。

[白文]37.子温而厲、威而不猛、恭而安。

[書き下し文]子は温やか(おだやか)にして厲しく(はげしく)、威あって猛からず、恭しくして安らかなり。

[口語訳]先生は温和でありながらも、激烈(厳格)なところがあり、威厳はあっても荒々しい粗雑さはない。慎み深い謙譲なところがあり、安心して接することができる。

[解説]『厳しさと優しさ』『暴力的でない威厳』『慢心のない謙譲の精神』など、孔子の調和の取れた見事な人格について述懐した部分である。

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