『論語 泰伯篇』の書き下し文と現代語訳:1

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孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の泰伯篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の泰伯篇は、以下の3つのページによって解説されています。

[白文]1.子曰、泰伯其可謂至徳也已矣、三以天下讓、民無得而称焉。

[書き下し文]子曰く、泰伯はそれ至徳と謂うべきなり、三たび天下を以て譲れるも、民得て称するなし。

[口語訳]先生(孔子)が言われた。『泰伯は至高の徳の持ち主といってもいいだろう。天下の政権を三度も兄弟に譲られたが、人民はそれがどういったことなのか理解できずに、泰伯を称賛することもなかった。』

[解説]周王朝は、武王が殷の紂王を征伐したことで天下の政権を手に入れたが、孔子が理想としたのは武王の弟の周公旦であった。武王が殷王朝を滅亡させるためには、周公旦と太公望呂尚の補佐が欠かせなかったが、殷を打倒した後に周公旦は自らの軍隊と権限を速やかに武王に返還した。実力的には武王と対等以上のものがあった周公旦が、敢えて兄の武王に政治権力と軍隊を委譲することで周王朝が確立し政治の安定が図られたのである。周公旦が、武王に政権を返還したことが『大政奉還』の故事成語を生み出したのである。

ここで、孔子が絶賛している泰伯という人物は、文王(武王の父親)の父に当たる季歴の兄に当たる。泰伯は、弟の季歴のほうが君主としての器量に勝っていることを見抜き、自ら周国を去って南方の蛮夷の地へと出奔した。つまり、周公旦よりも古い時代に、自ら政治権力を捨てた人物が泰伯であり、孔子はこの権力(君主の座)にこだわらずに国家の繁栄を第一とする泰伯の態度を賞賛しているのである。ちなみに、この泰伯という人物は、南方の国家・呉国の始祖とされている伝説的な人物でもある。

[白文]2.子曰、恭而無礼則労、慎而無礼則思、勇而無礼則乱、直而無礼則絞、君子篤於親、則民興於仁、故旧不遺、則民不偸。

[書き下し文]子曰く、恭にして礼なければ則ち労す。慎にして礼なければ則ち思す(しす)。勇にして礼なければ則ち乱る。直にして礼なければ則ち絞す。君子、親(しん)に篤ければ則ち民(たみ)仁に興る。故旧(こきゅう)遺れざれば(わすれざれば)則ち民偸からず(うすからず)。

[口語訳]先生がおっしゃった。『丁寧なだけで礼がなければ徒労に終わる。控え目なだけで礼を知らなければ物思いに耽るだけだ。勇敢なだけで礼を知らなければ乱暴になってしまう。率直なだけで礼を知らないと図々しく辛らつになるだけだ。』。『君子(貴族)が近親者に親切であれば、人民は仁徳を求め始める。君子が昔の友人を忘れなければ、人民も薄情ではなくなる。』

[解説]孔子が礼節・礼制の重要さを分かりやすく説いた部分である。『礼のない丁寧さ』は単なる無駄働きであり、『礼のない慎み深さ』は単なる物思いに過ぎず、『礼のない勇敢さ』は単なる粗暴になり、『礼のない率直さ』は失礼な図々しさになると謂っている。

[白文]3.曾子有疾、召門弟子曰、啓予足、啓予手、詩云、戦戦兢兢、如臨深淵、如履薄氷、而今而後、吾知免夫、小子。

[書き下し文]曾子(そうじ)疾(やまい)あり。門弟、子を召して曰く(のたまわく)、予が(わが)足を啓け(ひらけ)、予が手を啓け。詩に云わく、戦戦兢兢(せんせんきょうきょう)として深淵に臨むが如く、薄氷を履む(ふむ)が如しと。而今(いま)よりして後(のち)、吾免るることを知るかな、小子(しょうし)。

[口語訳]曾先生が病気になられたので、門弟を呼び集めて言われた。『着物から私の手と足を出しておくれ。』詩経ではこう歌っている。『おそるおそる慎重に、底の見えない深い淵に臨むように、今にも割れそうな薄氷の上を踏むように(父母から頂いた大切な身体を取り扱いなさい)』と。しかし、弟子達よ、今から後には、こういった身体への心配が要らなくなったことに気づいたのだ。

[解説]この章句は、自らの死期を悟った病気の曾子が、弟子たちを集めて自らの思いを述べたものである。儒教の道徳規範には、『祖先・父母から授かった大切な身体を無闇に傷つけてはいけない』というものがあり、初期の儒教の葬儀祭式では『死者に魂魄が舞い戻って生き返る』というような再生思想に基づき埋葬がなされていた。

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[白文]4.曾子有疾、孟敬子問之、曾子言曰、鳥之将死、其鳴也哀、人之将死、其言也善、君子所貴乎道者三、動容貌、斯遠暴慢矣、正顔色、斯近信矣、出乱気、斯遠鄙倍矣、辺豆之事、則有司存。

[書き下し文]曾子、疾あり。孟敬子(もうけいし)これを問う。曾子言いて曰く、鳥の将に死なんとするや、その鳴くこと哀し。人の将に死なんとするや、その言うこと善し。君子の道に貴ぶところの者三つ。容貌を動かしては斯ち(すなわち)暴慢に遠ざかる。顔色を正しては斯ち信に近づく。辞気(じき)を出だしては斯ち鄙倍(ひばい)に遠ざかる。辺豆(へんとう)のことは則ち有司存(ゆうしそん)なり。

[口語訳]曾先生が病気になられて、孟敬子がお見舞いされた。曾先生がおっしゃられた。『今にも死のうとする鳥の鳴き声は哀しげで、人間が死ぬ間際に残す言葉は、立派なものであると古来から言います。君子たる者は三つの道を尊重しなければなりません。第一に、立ち居振る舞いを慎重にすれば、暴力や慢心から遠ざかることが出来ます。第二に、顔色を正していれば、人々の信頼を集めることが出来ます。第三に、発言する時の語気に気をつければ、野卑で不合理な言葉から遠ざかるでしょう。祭祀のときの高杯(たかつき)などのことは、役人に任せると良いでしょう。』

[解説]病気が重くなってきた時期に、お見舞いに来てくれた孟敬子に対して、曾子の考える君子の道、実践的な君子の処世訓について述べた部分である。曾子は、『容貌・顔つき・立ち居振る舞い・言葉の語気と話し方』のすべてを適度に中庸に保つことによって、暴慢の悪徳や不合理な思考を避けられると考えていたのであり、儀礼的な細々とした規則については官吏に任せれば良いと語っている。

[白文]5.曾子曰、以能問於不能、以多問於寡、有若無、実若虚、犯而不校、昔者吾友、嘗従事於斯矣。

[書き下し文]曾子曰く、能を以て不能に問い、多きを以て寡なき(すくなき)に問い、有れども無きが若く、実あれども虚しきが若く、犯されて校いず(むくいず)。昔者(むかし)、吾が友、嘗て斯(ここ)に従事せり。

[口語訳]曾子がおっしゃった。『優れた才能を持っていながら、才能の乏しい者にも質問をし、多くの知識を持っていながら、知識の少ない者にも質問をする。あってもないように、充実していても空虚なように見せて、他人から攻撃されても反撃しない。私の旧友は、昔、このように努めていたのである。』

[解説]有徳の君子の身の処し方を曾子が分かりやすく語ったもので、才能の高低や知識の多寡にとらわれずに謙虚に幅広く意見を聞くことの大切さ、謙譲の徳の美しさについて触れている。ここで曾子が言っている旧友とは、孔子門下で一緒に勉学や政治に励んでいた顔淵・子貢・子路などのことであろう。

[白文]6.曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子人与、君子人也。

[書き下し文]曾子曰く、以て六尺(りくせき)の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節(たいせつ)に臨みて奪うべからず。君子人(くんしじん)か、君子人なり。

[口語訳]曾先生が言われた。『六尺の小さな孤児を預けることができ、方百里の大国の摂政を任せることができ、重大な事柄に臨んではその志を奪うことが出来ない。これが君子らしい人物であろうか、いや、これが君子らしい人物であるに違いない。』

[解説]曾子が理想とした君子の徳行のあり方を具体的に述べた部分である。つまり、幼い孤児の面倒を進んでみるほどの仁愛を持っており、大国の政治を動かせるほどの勇気と智謀を持っている人物、更に重大な局面において強靭な意志を維持できる人物が、君子と呼ぶに相応しい人物なのである。

[白文]7.曾子曰、士不可以不弘毅、任重而道遠、仁以為己任、不亦重乎、死而後已、不亦遠乎。

[書き下し文]曾子曰く、士は以て弘毅(こうき)ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す、亦重からずや。死して後已む(やむ)、亦遠からずや。

[口語訳]曾先生が言われた。『有徳の士は、折れない強固な意志を持たなければならない。その任務は重く、目的までの道は遠いのである。仁徳の修得を自己の任務とする、どうして重くないだろうか?仁の実践は死ぬ時まで延々と続けてから終わることになる、どうしてその道のりが遠くないといえるだろうか?』

[解説]曾子が、有徳の士たる者は、意志堅固な『弘毅の精神』を持たなければならないと説いた部分で、仁徳の修得と完成の難しさを教えているところである。

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