『論語 郷党篇』の書き下し文と現代語訳:1

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孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の郷党篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の郷党篇は、以下の3つのページによって解説されています。

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[白文]1.孔子於郷党恂恂如也、似不能言者、其在宗廟朝廷、便便言、唯謹爾。

[書き下し文]孔子、郷党に於いては恂恂如(じゅんじゅんじょ)たり。言う能わざる者に似たり。その宗廟・朝廷に在りては便便(べんべん)として言い、唯(ただ)謹めり。

[口語訳]孔子は、郷里では物静かで余り話を上手くしなかった。まるでしゃべることが出来ない者のようであった。しかし、先祖の霊廟(お墓)や政治を行う朝廷では、流暢に雄弁に語ることができ、謹厳で真面目な態度を崩さなかった。

[解説]孔子は巧言令色を嫌った為、活発に持論を展開する必要のない故郷の居宅では、その弁舌や言論の力を敢えて発揮しなかった。その為、孔子の地元の人々は、孔子が弁論が苦手で引っ込み思案な性格なのではないかと思い込んでしまったほどである。しかし、弁論の才覚や言論の実力を見せなければならない政治の場(朝廷)や祭礼の場(宗廟)では、何ら臆することなく堂々と流暢に自分の意見や礼節を語ったのである。

[白文]2.朝与下大夫言、侃侃如也、与上大夫言、言言如也、君在叔昔如也、与与如也。

[書き下し文]朝(ちょう)にして下大夫(かたいふ)と言えば、侃侃如(かんかんじょ)たり、上大夫(じょうたいふ)と言えば、言言如(ぎんぎんじょ)たり。君在す(います)ときは、叔昔如(しゅくせきじょ)たり、与与如(よよじょ)たり。

[口語訳]議会(話し合いの場)で下役の下大夫と話される時には、温厚な態度である。上役の上大夫と話される時には、公正中立な態度である。君主がいらっしゃる時には、恭しく謙譲な態度で適度な落ち着きを持っていた。

[解説]孔子の朝廷や議会場における礼節と処世について記した章で、孔子は自分よりも下位の役人に和やかに接し、自分よりも上位の役人に対して過度にご機嫌取りをすることがなかった。中立公正と温雅毅然とした態度をいつも心がけ、君主に謁見する際には礼の道から外れないように敬虔で恭しい態度を守っていたようである。

[白文]3.君召使擯、色勃如也、足攫如也、揖所与立、左右其手、衣前後譫如也、趨進翼如也、賓退、必復命曰、賓不顧矣。

[書き下し文]君(きみ)召して擯(ひん)せしむるときは、色(いろ)勃如(ぼつじょ)たり、足攫如(かくじょ)たり。与(とも)に立てる所を揖(ゆう)するときは、その手を左右にして衣の前後、譫如(せんじょ)たり。趨り(はしり)進むには翼如(よくじょ)たり。賓(ひん)退くときは必ず復命して曰く、賓顧みずと。

[口語訳]主君から召しだされて国賓の接待をさせられる時には、顔色が生き生きとして、足の歩み方がゆっくりとなった。接待する役目を仰せ付けられた同僚にご挨拶される時には、組み合わせた手を左右に持ち上げて挨拶し、衣服の前後が乱れることはなかった。少し小走りをして進み、するすると速やかに自分の席にお着きになった。国賓が退席されると、『お客様が挨拶をされてお帰りになりました』と必ず主君に復命なされた。

[解説]国賓の接待を主君に命じられた孔子の具体的な礼儀作法のあり方を解説した章句であり、孔子の鮮やかで無駄がない動き、礼に違背することのない身の処し方が再現されている。

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[白文]4.入公門、鞠躬如也如不容、立不中門、行不覆閾、過位色勃如也、足攫如也、其言似不足者、攝斉升堂鞠躬如也、屏氣似不息者、出降一等、逞顔色怡怡如也、没階趨進翼如也、復其位叔昔如也。

[書き下し文]公門に入るときは、鞠躬如(きつきゅうじょ)として容れられざるが如くす。立つに門に中(ちゅう)せず、行くに閾(しきい)を履まず(ふまず)。位を過ぐれば、色勃如たり、足攫如たり。その言うこと足らざる者に似たり。斉(し)を摂げて(かかげて)堂に升る(のぼる)に、鞠躬如(きつきゅうじょ)たり。気を屏めて(おさめて)息せざる者に似たり。出でて一等を降れば、顔色を逞しくして怡怡如(いいじょ)たり。階を没くして(つくして)趨り進むときは、翼如たり。その位に復る(かえる)ときは、叔昔如(しゅくせきじょ)たり。

[口語訳]先生が王宮の門に入られるときには、身体を鞠のように丸くかがめて、ぎりぎりで門を通れるかのように入っていかれる。門の中では、君主が立つ中央部には決して立たない。門の敷居を踏むことも決してない。門を入って中庭に進み、(君主がいつも座られる場所に近づくと)先生の顔色は改まり、足の進み方もためらいがちにゆっくりとなる。まるで何も話せない人のように物静かに恭しくなられる。衣服の裾(すそ)を持ち上げて宮殿の堂上に昇るときには、身体を丸くかがめて、息をひっそりと静かに行い、まるで息をしていない者のようである。堂上から退いて階段を一段降りると、顔色に力がみなぎり、のびのびとした様子になられる。階段を全部降りきると、小走りに進まれてするすると自分の位置に戻られる。元の位置に戻るときには、また厳かでしずしずとした様子になられている。

[解説]主君の在所であり政治の中枢である宮廷(宮城)における具体的な礼儀作法のあり方を、孔子の実例をもとに示した章句であろう。孔子は封建主義的な身分秩序を守ることが、安定した政治統治につながると考えていたので、国王・君主に対しては控え目で謙譲な態度を崩さず、君主の前では自分の存在を誇示することのないように注意深い行動を取っていたようである。

[白文]5.執圭鞠躬如也、如不勝、上如揖、下如授、勃如戦色、足縮縮如有循也、享礼有容色、私覿愉愉如也。

[書き下し文]圭(けい)を執るときは、鞠躬如(きつきゅうじょ)として勝えざる(たえざる)が如し。上ぐること、揖(ゆう)するが如くし、下すこと、授くるが如くす。勃如(ぼつじょ)として戦色あり。足、縮縮如(しゅくしゅくじょ)として循う(したがう)ことあり。享礼(きょうれい)には容色あり。私覿(してき)には愉愉如(ゆゆじょ)たり。

[口語訳]主君の命を受けた使者が持つ圭(玉のついたシャクジョウ)を受け取る時には、身体を丸くかがめてその圭の重さに耐えられないように見える。圭を持ち上げる時には、他人に優雅に挨拶するかのように、圭を下に降ろす時には、他人にものを授けるように丁寧にする。顔色を生き生きとして、緊張感を感じさせるように引き締まっている。足の運びはつま先を持ち上げるようにして、ゆっくりとすり足で進んでいる。君主の贈り物を相手に捧げる享の儀礼になると、先生は顔色に感情をお示しになられる。私的な会談になれば、先生は非常に機嫌が良くて愉快な様子である。

[解説]孔子が君主の使者として他国に使いをする時の具体的な礼制について表現した章で、孔子は君主を象徴する圭を非常に大切に謹厳に取り扱っていた。その時々の状況や礼節に合わせて、孔子は顔色に感情を込めたり恭しくへりくだったりしており、緊張すべき場面とリラックスする場面での態度の使い分けがとても適切であった。

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[白文]6.君子不以紺取飾、紅紫不以為褻服、当暑眞希谷、必表而出之、輜衣羔裘、素衣麑裘、黄衣狐裘、褻裘長、短右袂、必有寝衣、長一身有半、狐貉之厚以居、去喪無所不佩、非帷裳、必殺之、羔裘玄冠不以弔、吉月必朝服而朝。

[書き下し文]君子、紺取(かんしゅう)を以て飾らず。紅紫(こうし)以て褻服(せっぷく)と為さず。暑に当たりては眞(ひとえ)の希谷(ちげき)、必ず表して出ず。輜衣(しい)には羔裘(こうきゅう)、素衣には麑裘(げいきゅう)、黄衣(こうい)には狐裘(こきゅう)。褻裘(せつきゅう)は長く右の袂を短くす。必ず寝衣(しんい)あり、長(たけ)は一身有半(いっしんゆうはん)。狐貉(こかく)の厚き以て居る。喪を去いて(のぞいて)は佩び(おび)ざるところなし。帷裳(いしょう)にあらざれば必ずこれを殺(さい)す。羔裘玄冠(こうきゅうげんかん)しては以て弔せず。吉月には必ず朝服(ちょうふく)して朝す(ちょうす)。

[口語訳]君子というものは、物忌みの色である紺や喪明けを示す色である赤茶色で衣服を飾ったりはしない。紅や紫といった派手な色が混じった衣服を着ない。暑い季節には、葛(くず)の布目がしっかりした衣服や、布目が大まかな生地の単衣(ひとえ)の上着を、体を隠す下着の上から着るようにしなければならない。(寒い時期には)黒い子羊の毛皮の上に、黒木綿の上着を着る。白色の上着であれば、白の仔鹿の毛皮が合い、黄色の上着であれば、黄色の狐の毛皮が合うだろう。いつも着る毛皮は長いので、邪魔にならないように右の袂を短くしている。寝巻きを着るが、その長さは身長の1.5倍になっている。客人には、狐や狢の分厚い毛皮を下に敷いて、その上に座っていただく。喪が明ければ、喪中に外していた装飾品の玉などを再びすみやかに身に付ける。朝服として着る帷裳(いしょう)は特別な仕立てなので、それ以外の服であれば適切な形に裁断する。慶賀のときに着る羔裘と玄冠を身に付けて、弔問に訪れるようなことはない。月の初め(一日)には、必ず朝廷の礼服を身に付けて出仕するのである。

[解説]有徳の君子として相応しい衣服の選択と着こなし方について実に詳しく述べている部分であり、孔子は吉事や凶事に合った『適切な礼服』を身に付けることを重視していた。礼制の基本は、『状況や吉凶に適した服装・着こなし』を整えることにある。君子は、服装や身なりは贅沢である必要はまったくないが慣習的な礼服を用意する必要があり、儒教では礼儀を『実際の形式(服装・行動・儀式)』として表現することが重視されていく。

[白文]7.斉必有明衣、布、斉必変食、居必遷坐。

[書き下し文]斉(さい)するときは必ず明衣(めいい)あり、布なり。斉するときは必ず食を変じ、居は必ず坐を遷す。

[口語訳](凶事を避けて身を清めるための)斎戒沐浴をするときには、必ず浴衣(ゆかた)を着る、その生地は麻が良い。斎戒沐浴のときには、いつもとは食事のメニューを変えて、住居の中でも座る場所を変えるようにする。

[解説]孔子が身を清めるために行った『斎戒沐浴のやり方』について触れた章で、斎戒するときに浴衣を着るなど当時の民俗文化を偲ぶことができる。

[白文]8.食不厭精、膾不厭細、食饐而曷魚餒而肉敗不食、食悪不食、臭悪不食、失壬不食、不時不食、割不正不食、不得其醤不食、肉雖多不使勝食気、惟酒無量、不及乱、沽酒市脯不食、不撤薑食、不多食。祭於公不宿肉、祭肉不出三日、出三日不食之矣、食不語、寝不言、雖疏食菜羹瓜祭、必斉如也。

[書き下し文]食(いい)は精(しらげ)を厭わず、膾(なます)は細きを厭わず。食の饐(い)して曷(あい)せると、魚(うお)の餒れて(あされて)肉の敗れたるは食らわず。色の悪しきは食らわず。臭いの悪しきは食らわず。壬(じん)を失えるは食らわず。時ならざるは食らわず。割(きりめ)正しからざれば食らわず。その醤(しょう)を得ざれば食らわず。肉は多しと雖も、食(し)の気に勝たしめず。唯酒は量なく、乱に及ばず。沽酒(こしゅ)と市脯(しほ)は食らわず。薑(はじかみ)を撤てず(すてず)して食らう、多くは食らわず。公に祭するときは肉を宿(しゅく)せず。祭の肉は三日を出でず。三日を出でたるはこれを食らわず。食らうに語らず、寝ぬる(いぬる)に言わず。疏食(そし)と菜羹(さいこう)と瓜(うり)と雖も、祭るときは必ず斉如たり。

[口語訳]孔子は、精白されている米を好み、膾の肉は細かく切っているものをお好みになった。飯が饐えて味が悪くなったり、魚が傷んでいたり、肉が腐っていたりすれば食べなかった。色の悪いものは食べず、臭いの悪いものはお食べにならなかった。煮加減が悪ければ食べず、季節外れのものは食べず、切り目が正しくなければ食べず、だし汁が一緒に出なければ食べられない。肉を多く食べたとしてもご飯の量を越えることはない。お酒の量は決まっていないが、酔っ払うまでは飲まない。(自分で作った酒以外の)市場で買った酒や乾し肉はお食べにならなかった。生姜を捨てずにお食べになったが、多くは食べなかった。主君の祭祀に出される肉は、その日のうちに食べ切って残さなかった。家の祭祀の肉は三日以上は残さず、三日を越えればお食べにならなかった。食事中には学問を語らず、就寝中には寝言を言われなかった。粗末なご飯や野菜の汁、瓜でも、祭祀で神にお供えするときには恭しく厳粛な態度をされていた。

[解説]孔子の食事のメニューや食材の鮮度に対するこだわりが感じられる章であり、孔子は古くて腐りかけているものや自分の味の好みに合わないものは余り口にしなかったようである。精白された白い米や新鮮な肉・魚、風味豊かなだし汁、季節感のある旬の食材など……孔子が古代中国の春秋時代の人であることを考えると、かなり食事内容にうるさい舌の肥えた食通だったのかもしれない。

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