『論語 憲問篇』の書き下し文と現代語訳:1

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孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の憲問(けんもん)篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の憲問篇は、以下の5つのページによって解説されています。

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[白文]1.憲問恥、子曰、邦有道穀、邦無道穀、恥也、

[書き下し文]憲(けん)、恥を問う。子曰く、邦(くに)道あれば穀(こく)す。邦道無きときに穀するは恥なり。

[口語訳]原憲(げんけん)が恥について質問をした。先生がお答えになられた。『国家に正しい道理があれば、官吏(役人)になって俸禄(給料)を受け取っても良い。しかし、国家に道徳が行われていない時に、官吏になって俸禄を受け取るのは恥である。』

[解説]『原憲』は、字(あざな)を子思(しし)といい孔子の弟子である。孔子が官吏に求めたエートス(道徳的理性)は経世済民(けいせいさいみん)であり、国家が国民(民衆)を苦しめているような国では、官吏(公務員)となって俸給(給料)を受け取るべきではないと考えた。つまり、儒学の理想とする王道政治では、政治(=為政者・役人)は民衆の幸福と安心のために存在するのであり、民衆が困窮して不幸な立場に置かれているような状況で、既存の政治体制に与する(くみする)ことを潔しとしなかったのである。国家と官吏は国民(人民)の血税で支えられているが、封建制度の慣習によって政治が運営されていた春秋戦国時代には、孔子の人民の生活重視の政治観は異端であった。

[白文]2.克伐怨欲不行焉、可以為仁矣、子曰、可以為難矣、仁則吾不知也、

[書き下し文]克(こく)・伐(ばつ)・怨(えん)・欲(よく)、行われざる、以て仁と為すべし。子曰く、以て難し(かたし)と為すべし。仁は則ち我知らざるなり。

[口語訳]『他人に勝ちたがること・他人に自慢すること・恨むこと・欲深いこと、これらがなければ仁と言えるでしょうか。』。先生が言われた。『それらを無くすことは極めて難しいだろう。しかし、それが仁であるか否かは私は知らない。』

[解説]ある人が孔子に『仁の本質』について問いかけ、『勝ちたがること・自慢すること・恨むこと・欲深いことがなければ仁と言えるか』と質問した章である。孔子は『仁』についての明言を避け、それらの高潔な人格の要素は重要なものであるが、仁そのものの条件であるかは分からないと慎重な回答を返している。

[白文]3.子曰、士而懐居、不足以為士矣、

[書き下し文]子曰く、士(し)にして居(きょ)を懐う(おもう)は、以て士と為すに足らず。

[口語訳]先生が言われた。『志の高い士(し)でありながら安楽な住居(故郷)を思っているような人は、士と呼ぶことはできない。』

[解説]政治(天下)や社会に対して高い理想と志を掲げている人間を当時は『士』と呼んだが、孔子は快適な住環境や慣れ親しんだ故郷を恋い慕うような人間を『士』と呼ぶことは出来ないと語っている。その意味で、孔子は士の条件として一つの場所にこだわらない『行動力・決断力・実践力の高さ』を非常に重視していたと言える。士たるものは、自分を内向きにさせる『プライベートなもの』を越えた公共圏への義務を果たさなければならないのであり、必要とあらば慣れ親しんだ土地(家・故郷)を即座に捨てて行動できるだけの覚悟が求められたのである。現代に置き換えて考えると、心理的な依存や情緒的な甘えを断ち切った『フットワークの軽さ』や『異文化への適応力』の必要を説いた章と言える。

[白文]4.子曰、邦有道危言危行、邦無道危行言孫、

[書き下し文]子曰く、邦(くに)道あるときは言(げん)を危しく(はげしく)し、行いを危しくす。邦道無きときは行いを危しくし、言は孫う(したがう)。

[口語訳]先生が言われた。『国家に道徳に従った政治が行われている時は、正直に発言して正直に行動する。しかし、国家に道徳が実践されていない時は、正直に行動すべきだが、発言は控え目にすべきである。』

[解説]孔子のリアリズムに基づいた処世訓を示した章であり、権謀術数が渦巻く政治の世界では、正直にありのままの意見を述べて良い場合とそうではない場合があるという。国家に正しい政治が行われている時には、正直な発言と行動をしても身に危険はないが、国家が道理を見失って奸臣に独裁されている時には、正しい発言をすると自らの生命を失う恐れもある。しかし、孔子は高潔な理想を実現するために、『言葉の上での牽制(消極的な保身)』を用いても『行動の上での迎合(悪しき政治への協力)』は用いるべきではないと説いている。

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[白文]5.子曰、有徳者必有言、有言者不必有徳、仁者必有勇、勇者不必有仁、

[書き下し文]子曰く、徳ある者は必ず言あり、言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり、勇者は必ずしも仁あらず。

[口語訳]先生が言われた。『徳のある人は必ず優れた言葉を話すが、優れた言葉を話す人が必ずしも徳があるというわけではない。仁者は必ず勇気があるが、勇者は必ずしも仁徳を備えているとは限らない。』

[解説]孔子の仁者にまつわる論理学的な説明であり、仁者と雄弁家の違い、仁者と勇者の違いを論理的に簡潔に述べている。仁者はあらゆる側面において卓越した資質を発揮するが、中身のない雄弁家や勇者(豪傑)の場合には、人間を人間足らしめる重要な徳である『仁』が欠けている恐れがある。一つの才能や技芸に抜きん出ている人物であっても、必ずしも仁徳者であるというわけではないという当然の話を形式論理的に語っている。

[白文]6.南宮活(正しい漢字は、「しんにょう」)問於孔子曰、ゲイ善射、ゴウ盪舟、倶不得其死然、禹稷躬稼而有天下、夫子不答、南宮カツ出、子曰、君子哉若人、尚徳哉若人、

[書き下し文]南宮活(なんきゅうかつ)、孔子に問いて曰く、ゲイは射を善くし、ゴウは舟を盪かす(うごかす)。倶(とも)に、その死を得ず。禹(う)と稷(しょく)とは躬ら(みずから)稼(か)して天下を有つ(たもつ)と。夫子(ふうし)答えず。南宮活出ず。子曰く、君子なるかな、若き(かくのごとき)人、徳を尚べる(たっとべる)かな、若き人。

[口語訳]南宮活が孔子に質問をした。『ゲイの君は弓術に優れており、ゴウの君は船を動かすほどの怪力でしたが、二人とも不運な死を遂げてしまいました。禹と稷の君は、自分自身で田畑を耕作して天下を統一しました。(なぜ、優れた能力・武力のない君主が天下統一の大事業を果たせたのでしょうか?)』。先生はお答えにならない。南宮活は退室した。先生がおっしゃった。『君子であるな、あのような人は。徳を尊重する人だな、あの人は。』。

[解説]南宮活は、(多分に伝説的ではあるが)歴史的事例を引いて『武力に優れた君主(ゲイ・ゴウ)』ではなく『人徳に優れた君主(禹・稷)』が中国の統一に成功したことを孔子に示している。ゲイとゴウは群衆を圧倒する武力によって『夏』の王朝を転覆させようとしたが、ゲイはゴウに殺されゴウもまた夏王の少康(しょうこう)に討伐されてしまった。夏王朝の祖であり伝説の聖王(氾濫する黄河の治水を行った聖王)である『禹』と、周王朝の祖であり農業技術を伝えたとされる『稷(后稷)』の人徳の高さを暗黙裡に示した部分でもある。

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[白文]7.子曰、君子而不仁者有矣夫、未有小人而仁者也、

[書き下し文]子曰く、君子にして不仁なる者あらんか。未だ小人にして仁なる者あらざるなり。

[口語訳]先生が言われた。『君子であるのに仁徳に欠けた者というのもあるだろう。しかし、小人でありながら仁徳を備えた者というのはまだ見たことがない。』

[解説]孔子が、君子の中に存在する『例外(仁徳に欠けた君子)』について言及した部分であるが、小人については『有徳の小人』というような例外的人物は存在しないと言っている。

[白文]8.子曰、愛之能勿労乎、忠焉能勿誨乎、

[書き下し文]子曰く、これを愛し、能く労すること勿からんや(なからんや)、忠ありて能く誨うる(おしうる)こと勿からんや。

[口語訳]先生が言われた。『愛するからには、労わらずにおられようか、真心(忠心・誠実)があるからには、教えないでいられようか。』

[解説]孔子が人間の愛情やまごころの機微について語った章であり、愛があれば共感が生まれ、真心があれば相手に『正しい知識・情報』を教えてやりたいという思いやりが生まれるということである。

[白文]9.子曰、為命卑甚草創之、世叔討論之、行人子羽脩飾之、東里子産潤色之、

[書き下し文]子曰く、命を為る(つくる)や、卑甚(ひじん)これを草創し、世叔(せいしゅく)これを討論し、行人(こうじん)の子羽(しう)これを脩飾(しゅうしょく)し、東里(とうり)の子産(しさん)これを潤色(じゅんしょく)す。

[口語訳]先生が言われた。『鄭(てい)の国の外交文書は、卑甚が草稿を書いて、世叔がこれを検討し、外務担当の子羽がこれを添削(文章の削減と修飾)し、東里に住む子産がこの原文を豊かな表現を持つ文章へと潤色したのである。』

[解説]中原の先進国として栄えていた鄭国の外交文書の作成過程について孔子が述べた部分であり、孔子は名宰相として知られていた子産を深く尊敬していたという。外交文書の作成を文才に優れた一人の人物に任せっぱなしにするのではなく、複数の人間の手を介することによって二重三重のエラーチェックをすることができ、最後の最後で、名文家でもあった子産が洗練された外交文章の表現・技巧・内容を整えたのである。

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[白文]10.或問子産、子曰、恵人也、問子西、曰、彼哉、彼哉、問管仲、曰、人也、奪伯氏駢邑三百、飯疏食、没歯無怨言、

[書き下し文]或るひと、子産を問う。子曰く、恵人(けいじん)なり。子西(しせい)を問う。曰く、彼哉(かれか)、彼哉。管仲(かんちゅう)を問う。曰く、人なり、伯氏(はくし)の駢邑(べんゆう)三百を奪い、疏食(そし)を飯らいて(くらいて)歯(とし)を没わる(おわる)まで、怨言(えんげん)なかりき。

[口語訳]ある人が、鄭の子産についてお尋ねした。先生はお答えになられた。『恵み深い人物です。』。楚の子西についてお尋ねした。先生が答えられた。『あの人ですか、あの人ですか。』。斉の管仲についてお尋ねした。先生が答えられた。『かなりの人物です。管仲は、伯氏の駢の邑(まち)の三百戸の領地を奪いました。しかし、伯氏は粗末な飯を食べながら、年をとって死ぬまで怨み言を言わなかったのですから。』

[解説]孔子が、春秋時代において名声を博していた『鄭の子産・楚の子西・斉の管仲』について簡単な評価を下している部分である。孔子は、鄭の子産については『恵人』という風に素直に高い評価を与えているが、楚の子西については自分自身の意見を明らかにしていない。斉の桓公を中原の覇者の地位に押し上げた名宰相である管仲についても、あまり良い印象を持っていなかったようで、孔子は管仲の軍事戦略によって領地を奪われた伯氏(諸侯)の人格の高潔さのほうを賞賛している。

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