『老子 下篇』の書き下し文と現代語訳:4

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古代中国の春秋時代の思想家である老子(B.C.5世紀頃)の唱えた『道(タオ)』の思想は、戦国時代の荘子(B.C.369-286)の無為の思想と並んで老荘思想と言われます。楚国に生まれた老子は、姓を李、名を耳、字をタンと言いますが、公的な歴史史料(文献記録)からはその実在が立証されておらず、人物像も非常に不明確なものとなっています。しかし、老荘思想や神仙思想(不老不死の仙人と脱俗的な生活を目指す思想)の影響を強く受けて生まれた道教は、儒教・仏教と並んで中国の民族性・歴史性や世界観に大きな影響を与えてきました。中国三大思想(中国三大宗教)とは、儒教・仏教・道教(儒仏道)のことを指しています。道家の老荘思想は中国大陸の土着宗教・風俗である『道教』の根本思想となりましたが、老子・荘子は脱俗的な倫理規範と世界の普遍的原理である『道』を説いたのであって、直接的に宗教・風俗としての『道教』を創設したわけではありませんでした。

人為的な営みを排して無為自然の境地に遊ぼうとする『道教』は、世俗(君子の道)における立身出世を目指す『儒教』と対極を為していますが、近代以前の中国民族の基本原理はこの相矛盾する『儒教(陽)』と『道教(陰)』から成り立っていました。儒教では人間世界の社会秩序(権力機構)を規定する究極の原理として『天』を仮定しましたが、道教ではこの世界のありとあらゆるものを生み出す根本原理として悠久無辺の『道(タオ)』を考えました。道教では、世俗的な欲望や物質的な価値を否定的に見て、人為的な計らいを何もせずに、ただ自然のままに生きる『無為自然』を重視します。老子や荘子は、世俗的な問題(地位・財産・権力・名誉・性欲)とできるだけ関わらずに『無為自然』を実践することが、人間の理想的な生き方(倫理)につながると考えました。

この世俗的な欲望(煩悩)を否定して無為自然を勧める老荘思想は、釈迦の仏教でいう『諸行無常・涅槃寂静』にも共通する部分があり、古代中国では『老荘の無為』と『仏教の涅槃』は同一のものと解釈される傾向がありました。無為も涅槃(ねはん)も、『衆生の欲望・煩悩の炎』をふっと吹き消した状態であり、絶対的な安楽と静謐の状態であると考えられていました。道教と仏教の基本教義が似ているので、中国大陸では一時期、老子こそが釈迦そのものであるという『老子化胡説(ろうしかこせつ)』が言われたりもしました。

老子は周王室の書庫の記録官だったとされますが東周の衰退を見て立ち去り、関所の役人の尹喜の依頼を受けて『老子(上下巻5000余字)』を書き残したと言われています。『老子』は、上下巻の最初の一字である『道』と『徳』から『老子道徳経』と呼ばれることもあります。ここでは、『老子』の書き下し文を掲載して、簡単な解説(口語訳)を付け加えていきます。

[書き下し文]49.聖人は常の心無し、百姓(ひゃくせい)の心を以て心と為す。善なる者は吾之を善とし、不善なる者も吾(われ)亦之を善とす。善を得る。信なる者は吾之を信とし、不信なる者も吾亦之を信とす。信を得る。聖人の天下に在るは、キュウキュウとして天下の為に其の心を渾(こん)にす。百姓は皆其の耳目(じもく)を注ぐ。聖人は皆之を孩にす。

[口語訳]聖人には安定した定心はなく、人民の心を自分の心としている。善であるものを聖人は善とするが、また、善でないものも善とする。それによって、『善』の境地が得られる。信義のあるものを聖人は信じるが、信義のない不実なものもまた信じる。それによって、『信』の境地が得られる。聖人は天下において、全ての事柄を一つの原理にまとめて片付けるが、自分の心は渾然としていて一つではない。人民はみんな、聖人に耳と目を向けて様子を窺っているが、聖人は人民を赤ちゃんのように扱っている。

[書き下し文]50.生を出でて死に入る。生の徒(たぐい)は十に三有り。死の徒は十に三有り。人の生、動いて死地に之く(ゆく)、十に三有り。夫れ(それ)何の故ぞ。其の生生の厚きを以てなり。蓋し(けだし)聞く、『善く生を摂する者は、陸行(りくこう)してジ虎(じこ)に遇わず(あわず)、軍に入って甲兵を被らず(こうむらず)。ジも其の角を投ずる所無く、虎も其の爪を措く(おく)所無く、兵も其の刃を容るる所無し』と。夫れ何の故ぞ。其の死地無きを以てなり。

[口語訳]『生の道』を出て『死の道』へと入っていく。生きる道を行く者は、十人のうち三人であり、死ぬ道を行く者も、十人のうち三人である。人は無駄に動いて死ぬこともあるが、(間違った生への努力をして死ぬ者も)十人のうち三人である。何故、間違った行動をして死ぬのかというと、自分の生命を大切にし過ぎるからである。私は次のように聞いている。『上手く生命を守る者は、陸地を旅行しても危険な犀(さい)や虎に出会わず、軍隊に入っても鎧や武器を身に付けない。こういう無為なる人には、犀もその角を突きつけることができず、虎もその爪を振り下ろすことが出来ない。武器もその鋭い刃を突き入れるスキがない』と。何故かといえば、そういった人間には弱点としての死地がないからである。

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[書き下し文]52.天下に始め有り、以て天下の母と為す可し。既に其の母を知りて、復(また)其の子を知る。既に其の子を知りて、復其の母を守れば、没するまでに其れ殆うからず。其の兌(たい)を塞ぎ、其の門を閉ずれば、身を終うるまで勤れず(つかれず)。其の兌を開き、其の事を済せば(ませば)、身を終うるまで救われず。小を見るを明と曰い、柔を守るを強と曰う。其の光を用いて、其の明に復帰すれば、身の殃い(わざわい)を遺すこと無し。是を常(じょう)に襲る(いる)と謂う。

[口語訳]天下には始まりがあり、その始めは天下の母と言うことができる。母を知っていれば、その子どもを知ることができる。子どもを知っていれば、その母をしっかりと維持して、死ぬ時まで危害を受ける恐れがない。身体の穴(目・耳・鼻・口)を塞いで、精神の門(理性的思考)を閉じるならば、死ぬまで疲れ果てることはないだろう。身体の穴を開いて、外部からの情報を増大させれば、死ぬまで心が休まらず救われることはないだろう。小さいものまでしっかり見ることを明晰と言い、柔弱を保持することが真の強さだと言われる。光を使用して、その明晰へと帰っていけば、我が身に災いが降りかかることはない。これは、永遠に続く真理に柔順に従うことである。

[書き下し文]57.正を以て国を治め、奇を以て兵を用う。事無きを以て天下を取る。吾何を以て其の然るを知るや。此れを以てなり。天下に忌諱(きき)多くして、而うして民は弥々(いよいよ)貧し。民は利器を多くして、国家は滋々(ますます)昏し(くらし)。人、伎巧多くして、奇物滋々起こる。法令滋々彰われて(あらわれて)、盗賊多く有り。故に聖人の云わく、我為すことなくして而うして民は自ずから化し、我静を好んで而うして民は自ら正しく、我事無くして而うして民は自ら富み、我欲する事無くして而うして民は自ら樸なり。

[口語訳]正直を心がけて国を統治し、(敵をだます)奇策を用いて戦争を指揮する。しかし、何もしないでこそ、天下を取ることが出来るのだ。何故、私がそれを知っているのかというと、『道』によってである。天下に禁忌(タブー)が多くなればなるほど、人民はますます貧しくなる。人民が鋭い武器を持てば持つほど、国家はますます先行きが暗くなる。人民に技術者が多くなるほど、珍しい物がますます増えてくる。法令が多くなって規制が厳しくなるほど、盗賊が増えてくる。そこで、聖人(優れた為政者)はこう言っている。『私が何も行動しないことで、人民は自分から教化される。私が静かさを好むことによって、人民は自分から正しい行いをするようになる。私が人民に干渉しないことで、人民は自然と豊かになり、私が何も欲しがらないことで、人民は自然と削られていない純朴な樸(原木)のようになるのだ』と。

[書き下し文]58.其の政(まつりごと)悶悶たれば、其の民は淳淳(じゅんじゅん)たり。其の政察察たれば、其の民は欠欠(けつけつ)たり。禍(わざわい)や福の倚る(よる)所、福や禍の伏す所なり。孰か(たれか)其の極みを知らん。其れ正しき無き耶(や)。正しきは復(また)奇と為り、善なるは復妖(よう)と為る。人の迷うこと、其の日固より(もとより)久し。是を以て聖人は、方(ほう)にして而も割かず、廉(れん)にして而もヤブらず。直にして而も肆ならず、光ありて而も耀かず(かがやかず)。

[口語訳]政治がぼんやりと曖昧であれば、人民は純朴で誠実である。しかし、政治が細かく規制の目を光らせていれば、人民は不満を多く抱き危険な存在となる。不幸には幸福が寄り添っており、幸福には不幸が潜んでいる。誰が禍福の終わりを知っているだろうか?(誰も知らない)正しさの基準は無いのであろうか?正しいものが邪悪となり、善なるものが危険なものになってしまう。人が迷い悩むようになってから、長い時間が経っている。その為、聖人は方形(規律正しい)であるが、人民を切り裂かず、廉(かど)があるがそれで人民を傷つけることはない。まっすぐであっても何かに突き当たることがなく、光があるが(人の欲望や嫉妬を駆り立てるような)輝きはないのである。

[書き下し文]59.人を治め天に事うる(つかうる)は嗇(しょく)に若く(しく)は莫し(なし)。夫れ唯嗇なり、是を早く服すと謂う。早く服する之を重ねて徳を積むと謂う。重ねて徳を積めば、則ち克たざるは無し。克たざる無ければ、則ち其の極を知ること莫し。其の極を知ること無ければ、以て国を有す可し。国の母を有すれば、以て長久なる可し。是を、根を深くしテイを固くし、長生久視(ちょうせいきゅうし)の道と謂う。

[口語訳]人民を統治し天に仕えるには、吝嗇(ケチ)に徹することが一番である。吝嗇であることは、天の原理に従っていることになる。原理に従っていくことで、徳を積むことが出来るという。徳を積み重ねていけば、打ち勝てないものがなくなる。打ち勝てないものがなければ、その人の極限(限界)を知ることが出来なくなる。その人の限界を知ることが出来なければ、国を保有することが出来るようになる。国の『母』を保有すれば、その国の命運は非常に長くなるだろう。これが、根を深くして幹を太く固くする方法であり、『永遠に生存する道』と言われている。

[書き下し文]65.古(いにしえ)の善く道を為す者は、以て民を明らかにするに非ず、将に以て之を愚かにせんとす。民の治め難きは、其の智の多きを以てなり。故に智を以て国を治むるは、国の賊なり。智を以て国を治むることをせざるは、国の福(さいわい)なり。此の両つ(ふたつ)の者も亦稽式(けいしょく)なることを知る。常に稽式を知る、是を玄徳と謂う。玄徳は深し遠し。物と反る(かえる)。然る後に乃ち大順(たいじゅん)に至る。

[口語訳]『道』を適切に実践した古代の人は、人民の知性を高めたのではなかった。(反対に)人民を無知にしようとしたのである。人民を統治するのが難しいのは、人民が智慧を多く持ちすぎるからである。その為、国を治めるのに智慧を持ってするのは、国の損害となるだろう。反対に智慧を用いずに国を治めれば、国の利益を増すことが出来る。この二つが国家統治の規範であることを知った。いつも原則としての規範を知ることは、神秘的な玄徳と言われる。神秘的な徳は、奥深くて遠いものである。玄徳は物と共に帰ってくる。そして、帰ってきた時に大いなる柔順(素直さ)が実現するのである。

[書き下し文]67.天下皆我を道は大にして不肖に似たりと謂う。夫れ唯大なり、故に不肖に似たり。若し肖ならば、其の細なることは久しい。我に三宝有り、持して之を保つ。一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰く敢えて天下の先と為らずと。慈なるが故に能く勇なり、倹なるが故に能く広し。敢えて天下の先と為らず、故に能く器(き)の長(ちょう)を成す。今慈を舎てて(すてて)且に(まさに)勇ならんとし、倹を舎てて且に広からんとし、後なるを舎てて且に先ならんとするは、死せん。夫れ慈は、以て戦えば則ち勝ち、以て守れば則ち固し。天将に之を救わんとす、慈を以て之を衛る(まもる)。

[口語訳]天下のみんなが私に、『道は広大だが、愚鈍に似ている』と言う。『道』は大きいから愚鈍に似ているのだ。もし愚かに見えないならば、『道』はずっと以前に微細な取るに足りないものとなっていただろう。私には三つの宝があり、それを所有して保持している。第一に慈愛、第二に倹約、第三に天下の先頭に立って行動しないことである。慈愛があれば勇気を発揮することができ、倹約ができれば貧しい人へ布施(寄付)ができ、天下の先頭に立たないから、国家の長になれるのである。しかし、慈愛を棄てて勇気を発揮しようとし、倹約を棄てて布施をしようとし、後につくことをやめて先頭に立とうとすれば、ただ死が待っているだけだ。そもそも、慈愛があれば戦闘に勝つことができ、防衛すれば守りは非常に固いのだ。天がその国を救おうとする場合には、慈愛を持ってその国を守るのである。

[書き下し文]68.善く士為る(たる)者は、武ならず。善く戦うものは、怒らず。善く敵に勝つ者は、与せず(くみせず)。善く人を用うる者は、之が下と為る。是を不争の徳と謂い、是を人の力を用うと謂い、是を天の極に配すと謂う。

[口語訳]優れた戦士は、武力を誇らない。戦闘に強いものは、怒りの感情を見せない。敵に勝つ優れた人は、敵をまともに相手にしない。人を上手く使える人は、彼らの下にわざと立つ。これが争いを未然に防ぐことの『徳』と言われ、人民の能力を活用することと言われ、天命の側に立つこと言われることなのである。

[書き下し文]69.兵を用うるに言うこと有り、『吾敢えて主と為らず而うして客と為る。敢えて寸を進まず而うして尺を退く』と。是を、行くに行(みち)無く、攘(かか)ぐるに臂(ひじ)無く、ヒくに敵無く、執るに兵無し、と謂う。禍(わざわい)は敵を軽んずるより大なるは莫し。敵を軽んずれば、幾ど(ほとんど)吾が宝を喪わん。故に兵を抗げて(あげて)相加えれば、哀しむ者が勝つ。

[口語訳]軍略家に次のような言葉がある。『私はあえて指導者とならずに、指揮をしない客になろうとする。一寸でも進もうとせずに、一尺でも後退するようにする』と。これが、行こうとしても道がなく、袖をまくろうとしても腕がなく、引きずり込もうとしても敵がなく、手に取ろうとしても武器がないということである。敵を軽くみるほど大きな災いはない。敵を軽視すれば、自分の持っている宝をほとんど失うことになってしまう。だから、武器を掲げて敵と対決する時には、哀しみのある者(相手を警戒する者)のほうが勝つことになるのである。

[書き下し文]73.敢えてするに勇なれば、則ち殺さる。敢えてせざるに勇なれば、則ち活くる(いくる)。此の両つ(ふたつ)の者は、或は利あり或は害あり。天の悪む所、孰かその故を知らん。是を以て聖人すら猶之を難しとす。天の道は、争わずして而も善く勝ち、言わずして而も善く応ず。召かずして而も自ら来たり、セン然(せんぜん)として而も善く謀る。天網恢恢(てんもうかいかい)、疎にして失わず。

[口語訳]蛮勇を奮いすぎるものは殺されてしまう。臆病(慎重)に振る舞うものは生き残る。この二つの方法は、一つは利益があり、一つは損害がある。天に憎まれる理由を、誰が知っているだろうか?(誰も知らない)。その為、聖人でさえも、どちらの方法が良いかの判断を難しいということがある。天の道は、戦わずして勝ち、発言せずに応えることができ、招かれないでも自然とやってきて、緩やかなようでいて謀略をいつの間にか巡らしている。天の網は非常に広くて大きい、網の目は粗いのだが、捕えるべき相手を逃すことはないのである。

[書き下し文]74.民死を畏れざれば、奈何(いかん)ぞ死を以て之を懼れ(おそれ)させんや。若し民をして常に死を畏れしめ、而うして奇しき(あやしき)を為す者は、吾執えて(とらえて)而うして之を殺すことを得ば、孰か敢えてせん。常に殺しを司る者有りて殺す。夫れ殺しを司る者に代わって殺す、是を大匠(たいしょう)に代わってケズると謂う。夫れ大匠に代わってケズる者は、其の手を傷つけざる有ること希なり。

[口語訳]人民が死を恐れなければ、どのようにして彼らを死で脅すのだろうか?人民がいつも死を恐怖するとしても、新規な怪しいことをする者を捕まえて殺すことが出来るとしても、いったい誰がそんなことをするのだろうか?それらは、いつも殺す役目を担当する者が殺しているのだ。殺す役目のものの代わりに自分が殺すことは、偉大な職人に代わって原木を削ることになってしまう。偉大な職人の代わりに原木を削る者で、自分の手を怪我しない者は殆どいないのである。

[書き下し文]78.天下に水より柔弱なるは莫し。而も堅強なる者を攻むるに、之に能く勝つこと莫し。其の以て之に易うる(かうる)無きを以てなり。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つこと、天下知らざるは莫くして、能く行うこと莫し。是を以て聖人の云わく、『国の垢(こう)を受くる、是を社稷(しゃしょく)の主と謂う。国の不祥を受くる、是を天下の王と謂う』と。正言は反するが若し。

[口語訳]天下において、水よりも柔らかくて滑らかなものはない。堅くて強いものを攻撃する場合には、水よりも強いものはないのだ。他に水の代わりになるものがないからである。弱いものが強いものを打ち負かし、柔らかいものが固いものを打ち破るのは、全ての人が知っていることだが、これを上手く実行できる人はいない。その為、聖人は『国家の恥辱を引き受ける人が、社会の主君であるという。国家の災いを引き受ける人が、天下の王と言われる』と言っている。正しい言葉は、事実に反しているように聞こえるものである。

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[書き下し文]80.小国寡民(しょうごくかみん)には、什伯(じゅうはく)の器有りて而も用いざらしめ、民をして死を重んじて而うして遠く徒ら(うつら)ざらしむ。舟輿(しゅうよ)有りと雖も、之に乗る所無く、甲兵有りと雖も、之を陳ねる(つらねる)所無し。人をして復(また)縄を結んで而うして之を用いしめ、其の食を甘しとし、其の服を美とし、其の居に安んじ、其の俗を楽しましむ。隣国相望み、鶏犬(けいけん)の声相聞こえて、民は老死に至るまで相往来せず。

[口語訳]小さな領土の人口が少ない国に、軍隊があってもそれを使わないようにさせ、人民に生命を大切にさせて、遠くに移動しないようにさせる。船や車があっても、それに乗って行く所がなく、鎧や武器があっても、それを並べて使う機会もない。また古代のように、結んだ縄(単純な貨幣)を経済取引に用いるようにさせ、貧しい食物を美味しいと思わせ、粗末な衣服を美しく感じさせ、狭い住居に安住させ、素朴な風俗(生活様式)を楽しいと思わせるようにする。隣の国がすぐ近くの見えるところにあって、鶏や犬の鳴き声がお互いによく聞こえたとしても、(現在の生活に満足している)人民は年老いて死ぬまで、隣国の人と行き来することはないだろう(その結果、相互に戦乱の危険はなくなるだろう)。

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