日本の教育格差と社会的地位の世代間連鎖:格差社会の考察

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職業階層・所得水準の親から子への世代間継承性

市場原理に基づく構造改革とグローバル化が進む日本では、労働者の所得水準や雇用待遇の格差が開いていることを各種の統計データから確認することができます。特に、非正規雇用者層の低所得と不安定雇用が問題となっているわけですが、子どものいる世帯では『親世代の経済格差』が子どもの教育機会(学習意欲)と上昇志向(職業意識)に与える影響が注目されています。

日本は、高度経済成長の恩恵を受けた1980年代までは、世界的に見ても比較的格差の小さい平等社会であり、『人口の多い中流階層の自己アイデンティティ』によって経済活動が支えられていました。厳密には、1990年以前にも日本には多くの格差が存在していて、『ホワイトカラーの上級職』には有意な世代間継承性(親と同じ程度の地位に子が就く傾向)が認められていましたが、『頑張って勉強すれば良い職業に就ける』という具体的な上昇志向を中流階層が共有していました。

かつて日本を評して言っていた一億総中流社会というのは、正確には『すべての人が機会の平等を信じられる社会』であり、『結果としての平等が実現した社会』ではありません。国民所得の平等性が高かったと言われる1970年代~1980年代にも、大企業のサラリーマンと中小企業のサラリーマン、自営業者には厳然とした所得格差があり、官僚を始めとする公務員は福利厚生面で大幅に優遇されていましたから、すべての国民の生活水準が同じだったわけでは当然ありません。ただ、『所得水準の不平等』を抑制する終身雇用制と年功序列賃金のような労働環境があり、『一般的な正社員(公務員)・主婦のパート・学生のアルバイト』以外の雇用形態がほとんど無かったために『雇用格差の問題』が顕在化しなかったのです。

ライフスタイルが多様化した現代と違って、『価値観・人生観の均一性』が高い時代であり、『就職して結婚して子育てをする』といった一般的(常識的)な生き方のレールから外れる人はまずいませんでした。みんなが同じような人生を歩んでいくという『価値観の均質性の高さ』も、転職や中途退職が少ない終身雇用制を支えた一因であり、『就職した企業への忠誠心』を高く持つ日本的なサラリーマンを多く生み出した。現代の格差社会に入る直前の時代(バブル崩壊期)には、一つの企業に人生のすべてを捧げるという生き方を否定する形で、フリーターや派遣労働者のライフスタイルが喧伝されたこともありましたが、良くも悪くも1980年代頃までのサラリーマンは、勤めている会社を『自分の家(生涯の大部分を過ごす場所)』のように思っている部分があり、現代のサラリーマンの『会社に対する思い』とはかなりの違いがあると思われます。

所得・雇用格差が拡大した2007年現在では、正社員の終身雇用制のメリットに触れる懐古的な言及も多くなりましたが、1990年代前後には『働き方の自由』を名目にして、『仕事だけで人生を終わりたくない・働く時間を自律的にコントロールしたい』という若年の未熟練労働者たちがフリーターに流れていったという状況もあったでしょう。無論、景気が良くて家計に蓄えがある時代に増えた『自発的なフリーター層』は年々減っており、最近では、高学歴者で希望・適性(専門)に合った仕事が見つからずにフリーターをしている人や正社員で採用されないので仕方なくフリーターをしている人など『非自発的なフリーター層』の数が増えています。

何より、現在、『団塊の世代』と呼ばれる50~60代の人たちが就職する時には、高卒ブルーカラーの正社員であっても『中流階層的な生活水準(家庭生活)』を維持できるだけの所得があり、希望すれば高卒者のほとんどが正社員として採用される時代でした。その時代の所得格差というのは、『正社員同士で、どの会社に入るのかによる格差』であり『公務員になるのか会社員になるのかの違い』であって、どちらを選んでも最低限度の文化的生活以上の生活ができるという意味で、現代の『正規雇用と非正規雇用の間にある格差』とは質的・量的な違いがあります。

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1980年代くらいまでの就職観というのは、簡単に言ってしまえば『勉強して良い学校を卒業したり難しい試験に合格したりした人が、生涯賃金水準の高い企業・官庁に入る』という形式であり、『勉強ができない人や特別な才能のない人でも、やる気と努力があれば、一定水準の所得と終身雇用が保障された企業に入社できる(代替可能な単純労働にも一定以上の所得評価をする)』というものでした。それ以外にも、企業のサラリーマン生活に上手く適応できない人は、大工・とび職・左官・料理人・美容師などの職人の世界や自営業の世界に飛び込んでいくといった選択肢が用意されており、現在と比べると比較的高い所得を得ることが出来ていました。

その為、勉強ができてもできなくても、それなりの所得がある職業(企業)に就職できるという『結果の平等性』がある程度実現しており、『所得格差の存在』『学歴・能力・意欲の格差』として納得できるものと考えられていました。つまり、誰でも何らかの仕事をすれば、結婚して子どもを育てられるくらいの所得を得られる可能性が高いという意味で、かつての日本は『総中流社会の実感』を共有しやすい社会だったわけです。ホワイトカラーとブルーカラーの賃金格差も諸外国と比較すると小さく、『成果主義(実力主義)の賃金体系』を採用している会社も少なかったので、同じ会社に就職した同僚との所得格差もほとんどありませんでした。

1980年代頃まであった日本の総中流社会の実感は、『実証的な統計データ』に基づくものではなく生活実感や社会の制度設計からくる『機会の平等への信頼』に基づくものでした。市場原理を重視する資本主義社会では、『結果の平等』は悪平等につながるので良くないが、『機会の平等』は健全な競争を促進するので好ましいと言われます。自由主義社会と封建主義社会(身分制)を区別する『機会の平等』というのは、『本人の能力・努力・意欲以外の要素(属性)が競争の結果に影響しない状態』のことです。

努力して勉強すれば良い学校に入学でき、高い学歴を得れば大企業に就職できるというのが、日本の学歴社会を前提にした『機会の平等』でした。しかし、親子間に『職業・学歴の世代間継承性』が見られることから、親の所得水準・職業的地位・教養水準(教育態度)が『子どもの学習意欲・教育環境の格差』を生み出していることはほぼ間違いないと見られています。

つまり、親が医師であれば子が医師になる確率が高く、親が教師(公務員)であれば子が教師(公務員)になる可能性が高いということが、各種の世代間調査(社会階層と社会移動の全国調査)の統計データから分かっており、同じ職業を選択しなくても、親の学歴や所得が高いほど子の所得水準や職業的地位が上昇しやすい傾向があります。特に、指定された資格試験(選抜試験)が必要な『専門職・公務員(官僚)』や高学歴が最低必要条件となる『ホワイトカラーの上級職』において、親子間の世代間継承性が強くなっており『経済階層の再生産』が起こっている可能性があります。

その為、『親世代の格差社会』が進行する中で、『結果の不平等(親の格差)』『機会の不平等(子の格差)』を生み出すのではないかという懸念が持たれており、民主主義社会の公正性と信頼性を保つための『機会の平等』をどのようにして担保していくのかが課題になっています。つまり、子ども本人の能力や努力が及ばない要因によって、子どもの学力・学歴・進路(就職)が決定される頻度が上がってきているのではないかということであり、スタート時点の家庭環境や両親の所得水準に大きな格差があれば『機会の平等に基づく競争原理』が機能しない恐れがあります。

市場主義と競争原理に基づいて生み出される『結果の不平等』が全面的に肯定されるためには、『完全な機会の平等』が実現していなければなりませんが、現実の社会では『生まれてくる環境(親)』を選べないという不平等さがあるので、競争社会における結果の不平等は一定レベルで政治的に縮小是正されなければならないと言えます。つまり、社会格差是正のための経済政策(所得再分配と公的な教育支援)の正当性は、『親世代の格差を子ども世代の格差へと連鎖させない』というところにあります。

規制や再分配のない自由市場経済(アナルコ・キャピタリズム)は、一部の富裕層へと富を集中させ『流動性のない経済階層』をつくってしまう恐れがありますが、公的な教育支援や奨学生制度のない学歴社会は、一部のエリート層へと教育資源を集中させ『不可逆的な知識階層(市場経済での有力者層)』を生み出す恐れがあるのです。つまり、『生まれ落ちた環境によって、その後の人生の大半が決まってしまう』というような実質的な階層社会を回避するためにも、所得の再分配制度や公的な育児支援・教育支援は重要だと言えるでしょう。社会の経済的な活力と民衆の健全な精神を維持するためには、親世代の不利益を子ども世代にできるだけ影響させないような制度設計をしていかなければならないのです。

経済格差を縮小する社会保障制度や徴税による所得の再分配は、『本人にコントロールできない機会の不平等』によってある程度は肯定されるべきものです。それと同時に、学校や企業における『機会の不平等』をできるだけ減らして、『子どもの潜在的な可能性(学習意欲と知的能力)』を発揮できるような環境づくりと制度改革、親への情報提供を進めていかなければならないと思います。

『競争のスタート時点の平等性』をできるだけ高める努力を社会(政治)の側が怠れば、競争社会は格差社会へと変質し、格差社会は段階的に階層社会(実質的な身分制の復活)へと移行してしまうでしょう。教養水準の高い日本のような社会で『実質的な階層社会であるという認識』が強まってしまうと、『子どもが不幸な生活状況に置かれる可能性が高いと推測したカップル』が子どもをますます産まなくなり、少子高齢化社会と労働供給量の低下に拍車が掛かることになります。それは結果として、富裕層も含めた日本社会全体の精神的活力の低下と物質文明の衰退をもたらす危険があるのです。

『子どもの学歴・就職・学習意欲』と『家庭環境・親世代の格差』の相関関係の問題

上の部分で、子どもの家庭環境・教育資源の格差による『機会の不平等』と親子間の『社会的地位の世代間継承性』を見てきましたが、格差社会が進行することの最大の問題は『頑張ってもどうせ意味がない』という無力感を蔓延させて社会全体の活力を低迷させることにあります。子どもの教育環境の格差では、『親の学歴・教養水準・社会認識』が子どもの知的好奇心や学習意欲(将来のビジョン)に与える影響が指摘されますが、この問題は『親に対する教育情報や就職情報の提供・子どもの進路を話し合う三者面談などの有効活用』によってカバーできる部分があります。

学習意欲や学習時間に関する統計調査のデータからは、『親の学歴・職業・知的欲求』『子どもの学習時間の長さ』と相関していて、自主的に何かを学びたいという学習意欲も家庭環境の影響を受けることが分かっていますが、『学習行動の動機づけ』の全責任を家庭環境に転嫁できるわけではなく、家庭環境や親の属性と無関係に上昇志向や学習意欲が高い生徒もいます。

子どもの学習行動の動機づけや知的な学習環境の整備に前向きな親がいるほうが、子どもの学習意欲や勉強の成績が上がりやすいのは確かですが、それは子どもに無理やり勉強させようとする『教育ママ・教育パパがいる家庭環境』のほうが有利ということを意味しているわけではありません。例えば、子ども時代から子どもと一緒に簡単な勉強をして『自発的に学ぶ楽しさ』を教えてあげられる親や、面白い書籍(本)や刺激的な知的環境に触れさせて『自然な知的好奇心』を引き出してあげられる親のほうが学力競争に良い影響を与えやすいということです。親の所得水準に関しては、『子どもの学習意欲』の高まりに合った『効果的な教育環境』を準備して上げられるだけの経済力があれば、必然的に受験競争や試験成績で有利になってきます。

とはいえ、最終的には、子ども本人が一定以上のやる気や知的好奇心を持たなければ、国内外の一流大学に合格して卒業するだけの学力はつかないわけで、単純に高学歴のエリートである親が、無理やりに勉強をさせれば良い成績を取れるというわけではありません。本人に学習に対する動機づけがなく受験競争への適性や職業的な野心がない場合に、親が無理やりにスパルタ教育で勉強をさせれば、成績が上がらないどころか下手をすれば、家庭内暴力や家庭内の殺傷事件などの悲劇に発展する恐れもあります。

しかし、高学歴の親の過半数は、『勉強する楽しさ・物事を知る面白さ・学問の魅力』などを経験的に理解しているので、子どもの自発的な学習意欲や自主的な勉強の態度を引き出すことが、勉強をあまりしたことがない低学歴の親よりも上手いのです。『勉強を好きでやっていた親・勉強の面白さのポイントを知っている親』『勉強を嫌々やっていた親・勉強の退屈さばかりを感じていた親』の間には、必然的に子どもに対する教育態度に違いが生まれてきますし、『物事を学ぶ楽しさ・知的好奇心の大切さ・高等教育を受ける意義』を子どもに上手く伝えるコミュニケーション・スキルにも差が出てきます。

子どもに楽しく勉強をさせるのが上手い親というのは、『テストの成績・高学歴の有利さ』ばかりに焦点を合わせておらず、『勉強の面白さ・知的好奇心の高め方』を意識しながら子どもとコミュニケーションしているので、家庭環境(親の養育態度)による学力格差が生まれてくるケースがあるわけです。

親の学歴や所得が高いほど、子どもが高学歴になりやすく良い職業に就きやすいという傾向が統計データからは見られますが、それは、『高額の教育投資をできる所得の多さ』だけではなく『自分自身が勉強(学習)が好きで知的好奇心が強い』ということも影響していると考えられます。もちろん、親が勉強が嫌いでも、子どもは勉強が好きで堪らないというケースも相当に多くありますから、『親の勉強に対する態度』が決定論的に子どもの学習意欲を決めるわけではありません。

ただ、親が『勉強なんてしなくてもいいし無駄だ・勉強したってうちには大学にやるようなお金はない・高校(中学)を卒業したら仕事を選ばずにすぐに就職しろ』というような発言をしているような場合には、やはり、子どもは『自分は一生懸命勉強したってどうせダメなんだ・親の反対を押し切ってまで大学には行けない』というような気持ちになってしまい学習意欲や試験成績が下がりやすくなってしまいます。そういった複合的な経済的・心理的・家庭的・遺伝的要因によって、子どもの自発的な学習意欲や主体的な知的好奇心が規定されていくと考えられます。

親世代の所得・学歴・知的好奇心の格差による悪影響から『子どもの教育機会の平等』を守っていくためには、『学校外教育(学習塾・予備校)の格差縮小・進学と就職に関する情報へのアクセス率の向上(適切な情報提供)・公教育の完全無料化・成績優秀者に対する大学の学費免除』などが必要になってくるでしょう。

高学歴の高額所得者は、子どもに対して十分な教育投資ができるので、学習塾(予備校)の利用など受験勉強に特化した学校外教育で低所得者層よりも有利な面がでてきます。高額な授業料(月謝)を支払わなければならない学校外教育の機会の不平等を是正する最善の方法は、『学習塾や予備校に負けない高度な公教育』を実現することであり、『意欲と能力のある子どもの可能性』を無料の公教育で開発して上げられるような習熟度別授業を実施することでしょう。

国家の教育制度改革の方向性としては、学校外教育(塾)の有利性を高める『ゆとり教育』を実施するのではなく、学校外教育(塾)を無効化するような『公教育の充実と向上』を図ることだと言えます。子どもの学習意欲や進路選択においても『家庭環境による不利益』をできるだけ受けないようにするために、学校で『学歴・就職・職業に関する十分な情報提供』を行っていく必要があるでしょう。当然のことですが、知的能力や学業成績だけにこだわる必要はなく、『一人一人の子どもの能力・適性・関心に合った進路相談や情報提供』をしていくことで、『教育機会の不平等による不利益』を小さくしていくことができます。

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