『方丈記』の内容8:それ、人の友とあるものは

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鴨長明(かものちょうめい,1155-1216)が動乱の時代の1212年(建暦2年)に書いたとされる『方丈記(ほうじょうき)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。鴨長明は、下鴨神社の神官を統率する鴨長継(かものながつぐ)の次男として生まれましたが、河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)を目指す一族の権力争いに敗れて、自己の将来に対する落胆と挫折を経験しました。そういった鴨長明の立身出世や神職の獲得に対する挫折感も、『方丈記』の諸行無常の作風に影響を与えるといわれますが、長明は無常な世の中にただ絶望するのではなく、その現実を受け容れながらも自分らしく淡々と生きることの大切さを説いています。

『方丈記』が書かれた1212年前後の時代は、平安王朝から鎌倉幕府へと政権が移譲した『戦乱・混迷の時代』であり、京都の公家(貴族)と鎌倉の武家との間で不穏な対立・策謀の空気が張り詰めていた落ち着かない時代でもありました。それまで“絶対的”と信じられていた京都・朝廷(天皇・上皇)の権力が衰微して、血腥い源平合戦の中から次世代を担う新しい“武家社会の権力”が生まれてきます。『諸行無常の理』が、実際の歴史と戦(いくさ)を通して実感された時代だったのです。『政治・戦の混乱』と合わせて相次いだのが『天変地異(自然災害)』であり、人為では抵抗しようのない自然の猛威に対しても、鴨長明は冷静で適応的な観察眼と批評精神を働かせています。

晩年に、日野山で方丈(一丈四方)の庵を結んでこの随筆を書いたことから『方丈記』と名づけられましたが、漢字と仮名の混ざった『和漢混淆文』で書かれた最初の文学作品とされています。清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』、兼好法師の『徒然草』は、日本三大随筆と呼ばれています。『方丈記』全文のうちの“8”の部分が、このページによって解説されています。

参考文献

市古貞次『方丈記』(岩波文庫),『方丈記(全)』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),安良岡康作『方丈記』(講談社学術文庫)

[古文]

それ、人の友とあるものは、富めるを尊み、懇ろなるを先とす。必ずしも情あると、すなほなるとをば愛せず。ただ、糸竹・花月を友とせんにはしかじ。人の奴(やっこ)たるものは、賞罰はなはだしく、恩顧厚きを先とす。さらに、はぐくみあはれむと、安く静かなるとをば願はず。ただ、我が身を奴婢とするにはしかず。いかが奴婢とするならば、もし、なすべきことあれば、すなはち、おのが身を使ふ。たゆからずしもあらねど、人を随へ、人を顧みるより安し。もし、歩くべきことあれば、みづから歩む。

苦しといへども、馬・鞍・牛・車と、心を悩ますにはしかず。今、一身を分かちて、二つの用をなす。手の奴、足の乗物、よく我が心にかなへり。身、心の苦しみを知れれば、苦しむ時は休めつ、まめなれば、使ふ。使ふとても、たびたび過ぐさず。もの憂しとても、心を動かすことなし。いかにいはむや、常に歩き、常に働くは、これ養性なるべし。なんぞ、いたづらに休み居らむ。人を悩ます、罪業なり。

いかが、他の力を借るべき。衣食のたぐひ、また同じ。藤の衣、麻の衾(ふすま)、得るに隨ひて、肌をかくし、野辺のおはぎ、峰の木の実、わづかに命をつぐばかりなり。人に交はらざれば、姿を恥づる悔いもなし。糧乏しければ、おろそかなる報(むくい)をあまくす。すべて、かやうの楽しみ、富める人に対して、言ふにはあらず。ただ我が身一つにとりて、昔と今とをなぞらふるばかりなり。

おほかた、世を逃れ、身を捨てしより、恨みもなく、恐れもなし。命は天運にまかせて、惜しまず、いとはず。身は浮雲になずらへて、頼まず、まだしとせず。一期のたのしみは、うたたねの枕の上にきはまり、生涯の望みは、折々の美景に残れり。

[現代語訳]

さて、人間の友達というものは、裕福な友達にへつらい、ご機嫌取りの友達を重視したがる。思いやりがあることと、嘘の無いことは、実際には必ずしも重視されない。だから、利己的な人間を友とするよりは、糸竹・花月のような楽器及び自然の風物を友としたほうがマシなのである。人に雇われた従者は、報酬を弾んでくれて、自分を贔屓してくれる主人を重視するものである。しかし、自分を育ててくれる慈愛のある主人や安らかで静かな生活などは望まないのである。だから、従者を雇うのはやめておいて、自分自身を従者にするほうがまだマシなのである。

では、どんな風に自分を従者にするのかというと、しなければならないことがあれば、すぐに自分自身を使ってするということである。手間がかかるように感じるが、人を雇ってその人のことで気疲れするよりかはずっと気楽なのだ。もし、歩きが必要なのであれば、自分の足で歩けば良い。足が疲れるからといっても、馬・鞍・牛・車だと乗物を手配して気づかれするよりかはマシである。今、従者と乗物の二つを話題にしたが、この二つの働きを、自分ひとりの身体を使って分担すれば、何の気づかれも要らなくなる。従者(奴婢)に当たるのが手で、乗物に該当するのが足である。手も足も自分の体の一部なので、当然、自分の思い通りに動かすことができる。

身体については、心がその疲れについて知っているので、疲れた時には休ませ、元気な時には働かせるようにする。働かせるといっても、度が過ぎるようではいけない。気分が落ち込んでいる時には、心を働かせる必要はない。何といっても、こまめに歩いて、こまめに身体を動かすのは、心身の養生にもなるのである。どうして、何もせずに休み続けるのが良いのだろうか、いや、健康にも良いものではない。従者を雇って人を使うというのは、ある種の罪業でもある。どうして他人の力を借りなければならないのか。自分でできることであれば、自分でやるべきなのだ。

衣食についても同じことである。藤の蔓で作った粗末な衣服でも、麻布で作った粗末な布団でも、手に入ったものだけで身を覆うようにする。食べ物も、野原に生える嫁菜を摘んだり、山の木の実を採ったりして、細々と命をつないでいけばいいではないか。人の付き合いがないのだから、みすぼらしい姿を恥じて後悔することなどもなくなる。食べ物が入手しづらいので、粗末な食事でも美味しく感じられるようになる。こうした粗衣粗食の楽しみは、裕福な人たちに向かって言っているのではない。

ただ自分の身を振り返って、都会で暮らした昔と山中で独り暮らししている今とを比べて、その感想を述べているだけである。

大体、世間を離れて、出家してからというもの、人を恨むことも、ものを恐れることも無くなった。自分の命は天に任せているから、命が尽きるのを惜しんだり、死を忌み嫌ったりすることもない。自分自身を儚い浮雲のように考えているから、将来に期待したり、現在に不満を抱くこともないのだ。人生で一番の楽しみは、肘枕の上でうたたねしていることであり、生涯の望みは、四季折々の美しい景色に風情を感じることである。

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[古文]

それ三界(さんがい)は、ただ心一つなり。心もし安からずは、象馬(ぞうめ)・七珍(しちちん)もよしなく、宮殿・楼閣も望みなし。今寂しき住まひ、一間の庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でて、乞食となれることを恥づといへども、帰りてここに居る時は、他の俗塵に馳する(はする)ことをあはれむ。もし、人この言へることを疑はば、魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず、魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林を願ふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味も、また同じ。住まずして、誰かさとらむ。

[現代語訳]

仏教で『三界(欲界・色界・無色界)』と呼ばれる人間世界は、心の持ち方次第でどのようにも変わる。もし心が安らがないのであれば、象・馬・七宝といった財宝も欲しくはないし、宮殿・楼閣に住みたいとも思わない。今、寂しい独り住まいを山中でしているが、一間の小屋で住むことを、私は自ら好んでやっている。たまたま京の都に行った時には、自分が乞食同然になっている姿を恥ずかしく思うのだが、庵に戻ってくれば、他の人々が世俗の欲望に塗れていることを逆に憐れだと思う。もし、人がこの発言を嘘だと疑うのであれば、魚と鳥の様子を見てみるがいい。

魚は水に飽きることがないし、魚でなければその心を知ることはできない。鳥は林を好んでいるが、鳥でなければその心を知ることができない。侘しい独り暮らしの味わいも、また同じなのである。そういった山奥の庵に住んだこともなくて、どうしてその味わい・良さが分かるというのだろうか、いや、分かるはずがないのだ。

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