『徒然草』の序段・1段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の序段~1段が、このページによって解説されています。

参考文献

西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

序段.つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

[現代語訳]

手持ち無沙汰にやることもなく一日を過ごし、硯(すずり)に向かって心に浮かんでくる取りとめも無いことを、特に定まったこともなく書いていると、妙に馬鹿馬鹿しい気持ちになるものだ。

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[古文]

1段:いでや、この世に生まれては、願はしかるべき事多かんめれ。御門(みかど)の御位(おんくらい)は、いともかしこし。竹の園生(そのふ)の、末葉まで人間の種ならぬぞ、やんごとなき。一の人の御有様(おおんありさま)はさらなり、ただ人も、舎人(とねり)など賜はるきはは、ゆゆしと見ゆ。その子・うまごまでは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つ方(しもつかた)は、ほどにつけつつ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。

法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。『人には木の端のやうに思はるるよ』と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢(いきほひ)まうに、ののしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀聖(そうがひじり)の言いけんやうに、名聞(みょうもん)ぐるしく、仏の御教(みおしえ)にたがふらんとぞ覚ゆる。ひたふるの世捨人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。

人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ、物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬(あいぎょう)ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向かはまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣り(こころおとり)せらるる本性見えんこそ、口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生れつきたらめ、心は、などか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才(ざえ)なく成りぬれば、品下り、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるるこそ、本意(ほい)なきわざなれ

ありたき事は、まことしき文の道、作文・和歌・管絃の道。また、有職(うしょく)に公事(くじ)の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙からず走り書き、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、男(おのこ)はよけれ。

[現代語訳]

この世に生まれ出たからには、理想とする望ましいことは多いものだ。最高に望ましいのは天皇の位だが、これは非常に畏れ多いものである。天皇・皇族は子孫に至るまで、私たちと同じ一般の人間ではない(特別な血統である)。摂政・関白の位が私たち貴族にとっては、理想の職位である。一般の人でも、朝廷を警護する舎人(とねり)になれたらなかなか威厳があるものだ。そこから落ちぶれたとしても、孫の代までは気品があるように感じる。しかし、それよりも下の位になると、得意顔で自分の地位を自慢するのは、とても情けない(恥ずかしい)ことである。

しかし、最も羨ましくないのが僧侶(隠棲者)である。清少納言が『人から木っ端(取るに足りないもの)のように思われる』と書いたのも、本当に最もである。勢力を増して僧侶としてのし上がっても、凄いようには見えない。増賀上人が言ったように、名声欲は仏教の教義に背いているのだ。(名声・地位への欲望がない)本当の世捨人であれば、望ましい部分もあるかもしれないが。

人は容姿が優れているほうが良いと思われがちであるが、聞き苦しくない楽しい話ができて、程よい愛敬があり言葉数の少ない人のほうが、向かい合っていていつまでも飽きることがない。反対に、外見が良いように見える人の性格(心持ち)が悪くて、その(悪しき)本性が見えたときには本当に残念に思う。家柄・容姿は生得的なもので変えられないが、性格や教養は変えようと思って努力すれば変えることができる。一方、容姿と性格が良くてもそれに見合う教養がないと、醜くて下品な相手から議論で押さえ込まれてしまって不本意なことになってしまう。

理想的であるのは、本当の学問の道を修得して、漢詩・和歌・雅楽に精通しているということである。更に、朝廷の儀式・制度・慣習などの有職故実(ゆうそくこじつ)に通じている人を、人の模範となるべき凄い人物というのである。男ならば、筆で書く文字が達筆であり、音楽に合わせて上手に歌うことができ、酒も程よく飲めるというのが理想である。

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