『徒然草』の66段~68段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の66段~68段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第66段:岡本関白殿、盛りなる紅梅の枝に、鳥一双を添へて、この枝に付けて参らすべきよし、御鷹飼(おんたかかい)、下毛野武勝(しもつけのたけかつ)に仰せられたりけるに、「花に鳥付くる術、知り候はず。一枝に二つ付くる事も、存知し候はず」と申しければ、膳部に尋ねられ、人々に問はせ給ひて、また、武勝に、「さらば、己れが思はんやうに付けて参らせよ」と仰せられたりければ、花もなき梅の枝に、一つを付けて参らせけり。

武勝が申し侍りしは、「柴の枝、梅の枝、つぼみたると散りたるとに付く。五葉などにも付く。枝の長さ七尺、或は六尺、返し刀五分に切る。枝の半に鳥を付く。付くる枝、踏まする枝あり。しじら藤の割らぬにて、二所付くべし。藤の先は、ひうち羽の長に比べて切りて、牛の角のやうに撓むべし。初雪の朝、枝を肩にかけて、中門より振舞ひて参る。大砌(おおみぎり)の石を伝ひて、雪に跡をつけず、あまおほひの毛を少しかなぐり散らして、二棟の御所の高欄に寄せ掛く。禄を出ださるれば、肩に掛けて、拝して退く。初雪といへども、沓のはなの隠れぬほどの雪には、参らず。あまおほひの毛を散らすことは、鷹はよわ腰を取る事なれば、御鷹の取りたるよしなるべし」と申しき。

花に鳥付けずとは、いかなる故にかありけん。長月ばかりに、梅の作り枝に雉を付けて、「君がためにと折る花は時しも分かぬ」と言へる事、伊勢物語に見えたり。造り花は苦しからぬにや。

[現代語訳]

岡本関白殿(近衛家平)は、朝廷に仕える鷹飼の下毛野武勝に、花の盛りにある紅梅の枝につがいの雉の雌雄を添えて参上するように命じた。しかし、鷹飼の下毛野は『花の咲いた枝に、鳥を取り付ける技など知りません。ましてや、一つの枝に二羽の鳥を付ける方法などは存じていません』と答えた。次に岡本関白は膳部の料理人や周囲の人々に聞いてみて、もう一度、武勝に『お前の好きなように鳥をつけて持って参れ』と命じた。すると鷹飼の武勝は、花のない梅の枝に鳥を一匹だけくくりつけて、関白の元に参上した。

鷹飼の武勝が申し上げるところによると、『柴の枝。梅の枝。つぼみのある枝と散った枝には鳥を付けることができます。五葉の松にもくっつけられます。枝の長さは七尺、あるいは六尺、枝の両端は返し刀で五分に切り落とす。枝の中ほどに鳥を付ける。鳥の頭を付ける枝と足で踏ませる枝とがあります。しじら藤の割ってない蔓で、鳥の頭と足の二カ所を枝にくくり付けます。藤の先は、火打羽の丈と同じ長さに切って、牛の角のようにふくらませる。人の家に送るのであれば、初雪の朝に、枝を肩にかついで、中門より参上します。この時に、大砌の石を伝って歩いて、雪に足跡をつけてはいけません。枝につけた鳥の風切羽を少しばかり散らしてから、御所の手すりにかけて置いておきます。送り先の家が祝儀を下さるのであれば、今度は祝儀を肩にかついで、拝礼して退きます。初雪といっても、靴の先っぽが隠れないほどの雪ならば、風情がないので行くべきではありません。風切羽を散らすというのは、鷹は鳥の風切羽のあたりを狙って捕獲するので、鷹がその鳥を狩ったという証拠になるのです』ということだ。

花の咲いた枝に、鳥をくくってはいけないというのは、どういう理由からなのだろうか。『伊勢物語』で、秋の季節に梅の造花に雉をくくって愛する人の元に送ったという故事があるのだが、造花ならば花がついた枝でも、鳥をくくっても良いものなのだろうか。

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[古文]

第67段:賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひ紛へ侍れば、一年参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼び止めて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗(みたらし)に影の映りける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚(よしみずのおしょう)の、

月をめで 花を眺めし いにしへの やさしき人は ここにありはら

と詠み給ひけるは、岩本の社(やしろ)とこそ承り置き侍れど、己れらよりは、なかなか、御存知などもこそ候はめ」と、いとうやうやしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。

今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて、手向けられたり。まことにやんごとなき誉れありて、人の口にある歌多し。作文・詞序など、いみじく書く人なり。

[現代語訳]

京都・上賀茂神社の、岩本の社と橋本の社は在原業平と藤原実方を祀っている。(業平と実方は共に和歌の名人として知られる人物だが)どちらがどっちの社に祀られているのかの由縁がすでに分からなくなっていて、いつも人々は両者の社を混同してしまっている。

ある年に上賀茂神社をお詣りした時、神社にいた年老いた宮司を呼び止めて、その事について尋ねてみた。その老宮司が『藤原実方を祀る社は、御手洗の水面に影が映る社と聞いております。それでしたら、橋本の社の方が御手洗に近いと思います。歌人の吉水和尚が「月をめで 花を眺めし いにしへの やさしき人は ここにありはら」と詠んだのは、岩本の社の前であったと聞いています。しかし、こういう歌人の由緒については、私ども宮司よりも歌人の方々の方がご存知ではないかと思います』と丁寧に答えてくださったことを良く覚えている。

今出川院近衛(近衛という名前で呼ばれた鷹司伊平の娘)という歌人は、多くの歌集に歌を選ばれた女性であるが、若い頃から、常に百首の歌を詠むような才媛で、岩本と橋本の社の前の水で墨をすって歌を書いて、神社に奉納していた。この神社の本当に素晴らしいご利益があって、人の口にのぼるような良い歌を多く詠んだという。今出川院近衛は、作文や漢詩の序文なども上手に書く優れた人であった。

[古文]

第68段:筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなる者のありけるが、土大根(つちおおね)を万にいみじき薬とて、朝ごとに二つづつ焼きて食ひける事、年久しくなりぬ。

或時、館の内に人もなかりける隙をはかりて、敵襲ひ来りて、囲み攻めけるに、館の内に兵二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、皆追い返してげり。いと不思議に覚えて、「日比ここにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来頼みて、朝な朝な召しつる土大根らに候う」と言ひて、失せにけり。

深く信を致しぬれば、かかる徳もありけるにこそ。

[現代語訳]

九州の筑紫国に、押領使の役職に就いていたなにがしという人物がいた。この人は、大根を何にでも効く素晴らしい薬だと信じて、長年にわたって、毎朝二本ずつ焼いて食べ続けていた。

ある時、押領使が所管する館の中に兵がいない隙を見計らって、敵が襲ってきた。敵にすっかり取り囲まれていたのだが、館の中に二人の兵士が現れ、命も惜しまずに戦って、敵をみんな、追い返してしまった。押領使はとても不思議に思って、『日頃、この館で見ない者たちだが、ここまで懸命に戦うとは、どんな人物なのか?』と聞いた。すると、『あなたが長年信じてきて、毎朝召し上がっている大根でございます』と答えて、その勇敢な兵士は消えうせてしまった。

(何の役にも立ちそうにないものでも)深く信心をしていれば、このような徳もあるものだ。

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