『徒然草』の113段~116段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の113段~116段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第113段:四十にも余りぬる人の、色めきたる方、おのづから忍びてあらんは、いかがはせん、言に打ち出でて、男・女の事、人の上をも言ひ戯るるこそ、にげなく、見苦しけれ。

大方、聞きにくく、見苦しき事、老人の、若き人に交りて、興あらんと物言ひゐたる。数ならぬ身にて、世の覚えある人を隔てなきさまに言ひたる。貧しき所に、酒宴好み、客人に饗応せんときらめきたる。

[現代語訳]

四十歳を越えようという人が色事(男女関係)の方面に関心を持ったとしても、心の中に秘めているのであれば仕方ないであろうか。男女関係の事柄や他人の恋愛を戯れながら語っているようだと、年齢に相応しくなくて見苦しいものである。

大体、聞きにくくて見苦しいのは、老人が若い人に交じって、面白いだろうと思って得々と物事を語っている様である。大した身分でもないのに、世の中で知られている名声のある人を、自分と全く隔て(遠慮)がない関係にあるかのように語っている様子。貧しいのに酒宴を好んで、客人を手厚くもてなそうとして接待している様子。

[古文]

第114段:今出川の大殿、嵯峨へおはしけるに、有栖川のわたりに、水の流れたる所にて、賽王丸、御牛を追ひたりければ、あがきの水、前板までささとかかりけるを、為則、御車のしりに候ひけるが、『希有の童かな。かかる所にて御牛をば追ふものか』と言ひたりければ、大殿、御気色悪しくなりて、『おのれ、車やらん事、賽王丸にまさりてえ知らじ。希有の男なり』とて、御車に頭を打ち当てられにけり。この高名の賽王丸は、太秦殿の男、料の御牛飼いぞかし。

この太秦殿に侍りける女房の名ども、一人はひざさち、一人はことづち、一人ははふばら、一人はおとうしと付けられけり。

[現代語訳]

今出川の大殿(太政大臣・西園寺公相)が、牛車で嵯峨へお出かけになった時、有栖川の辺りの、水が流れているぬかるんだ道で、牛車の賽王丸がは車が泥濘(ぬかるみ)にはまり込まないように激しく牛を追い立てた。牛はあがいて水を蹴散らし、その水が大殿の御前までササッとかかったのだが、牛車の後ろに乗っていた従者の為則がそれを見て、『なんて馬鹿な奴だ、こんな水たまりの場所で牛を激しく追うなんて』ととがめた。

その様子を見ていた大殿は、機嫌が悪くなって、『おのれ!車を動かすことにおいて、お前は牛飼いに勝っているとでも言うのか。馬鹿はお前のほうだ』と為則の頭を車に打ち付けた。この高名な牛飼いの男は、太秦殿の賽王丸といい、賽王丸は大殿に歴代仕えてきた牛飼いであった。

(代々牛飼いの仕事で大殿に仕えてきた)太秦殿に仕えている女房の名前は、牛にちなんだ名前であり一人はひざさち、一人はことづち、一人ははふばら、一人はおとうしと名づけられていた。

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[古文]

第115段:宿河原(しゅくがわら)といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、『もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします』と尋ねければ、その中より、『いろをし、ここに候ふ。かくのたまふは、誰そ』と答ふれば、『しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり』と言ふ。いろをし、『ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。ここにて対面し奉るば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわずらひにならば、仏事の妨げに侍るべし』と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。

ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘諍(とうじょう)を事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしままに書き付け侍るなり。

[現代語訳]

宿河原という所に、ぼろぼろ(山野・河川敷を放浪した乞食・浮浪民)が多く集まって、九品の念仏を唱えていたが、そこに他所から来たぼろぼろが来て尋ねた。『この中に、いろをし房と言うぼろは、いらっしゃいませんか?』と。するとぼろぼろの中から、『いろをしならばここにいるぞ。そう言っているあなたのほうは誰ですか?』と答えが返ってきた。『私はしら梵字と申す者です。東国で私の師匠が、いろをしと言うぼろに殺されたと聞いて、その人に会ってお恨みを申し上げたいと思い参上いたした次第です』とそのぼろが答えた。 いろをしは、『よくぞここまで参られたな。そのような事が確かにあった。だが、ここで対面致すと道場を血で汚す事になるので、前の河原へ一緒に参ろう。ぼろの皆さん、どちらにも味方はしてくださるな。大勢の揉め事になってしまえば、仏道修行の妨げになってしまいます』 と言った。二人は河原に出ると、心ゆくまで刀で切り合って共に死んでしまった。

ぼろぼろという者は、昔はいなかったと言われている。ぼろんじとか梵字、漢字などと名のりだした者たちが、その始めとされている。世を捨てたかのように見えて我執が深く、仏道を求めるように見えて闘争を好むところがある。放逸な気ままさを持ち、恥知らずな有様だが、自分の死を恐れることも無く、少しも生きることにこだわらない生き方に潔さを感じて、人の語るままにぼろぼろについて書きつけ申したのである。

[古文]

第116段:寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、ただ、ありのままに、やすく付けけるなり。この比は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり。

何事も、珍らしき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。

[現代語訳]

寺の名前やその他の物でも、名を付ける事を昔の人は少しも欲張らずに(こだわらずに)、ただ、ありのままに気安くつけたものだ。最近は、深く考え込んで、自分の才覚を表そうとでもするかのように聞こえる名が多くて、とても煩わしい。人の名前も、見慣れぬ文字を使おうとするのは、(読みにくいだけで)無益なことである。

何事でも、珍しい事を求めて、奇抜なものを好むのは、浅はかな才知を持つ人が必ずやる事だと言われている。

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