『徒然草』の121段~124段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の121段~124段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第121段:養ひ飼ふものには、馬・牛。繋ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなはぬものなれば、いかがはせん。犬は、守り防くつとめ人にもまさりたれば、必ずあるべし。されど、家毎にあるものなれば、殊更に求め飼はずともありなん。

その外の鳥・獣、すべて用なきものなり。走る獣は、檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は、翅を切り、籠に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁、止む時なし。その思ひ、我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。生を苦しめて目を喜ばしむるは、桀・紂が心なり。王子猷が鳥を愛せし、林に楽しぶを見て、逍遙の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。

凡そ、『珍しき禽、あやしき獣、国に育はず』とこそ、文にも侍るなれ。

[現代語訳]

人が養って飼う動物には、馬と牛がいる。つなぎ苦しめるのは心苦しいけれども、牛と馬がいなくては人間の生活が成り立たないので、どうしようもない。犬も防犯の役目に関しては人よりも優れており、必ず飼っておきたい動物だ。しかし、各家ごとに飼っているのであれば、わざわざ自分が求めて飼うことも無いだろう。

その他の鳥や獣は、全て人間にとっては無用なものである。走る獣は、檻に閉じ込められて、鎖につながれ、飛ぶ鳥は、羽を切られて、籠に入れられているので、空を恋しく思って、野山を思う心は留まることがない。その鳥獣の憂いを我が身のことのように偲び難く感じるような心ある人が、動物の飼育を楽しめるだろうか。生き物を苦しめて、目を楽しませるのならば、人民を苦しめた古代中国の暴君である桀・紂の心と同じようなものである。

中国の王徽子は鳥を愛したが、捕らえて苦しめたのではなく、林を飛んでいる鳥の姿を見て楽しみ、散策の友としたのである。『珍しい鳥や変わった獣を、国が捕獲して育てるな』と中国の古典『書経』にも書いてある。

[古文]

第122段:人の才能は、文明らかにして、聖の教を知れるを第一とす。次には、手書く事、むねとする事はなくとも、これを習ふべし。学問に便りあらんためなり。次に、医術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝の務も、医にあらずはあるべからず。次に、弓射、馬に乗る事、六芸に出だせり。必ずこれをうかがふべし。文・武・医の道、まことに、欠けてはあるべからず。これを学ばんをば、いたづらなる人といふべからず。次に、食は、人の天なり。よく味はひを調へ知れる人、大きなる徳とすべし。次に細工、万に要多し。

この外の事ども、多能は君子の恥づる処なり。詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世には、これをもちて世を治むる事、漸くおろかになるに似たり。金(こがね)はすぐれたれども、鉄(くろがね)の益多きに及かざるが如し。

[現代語訳]

人の才能というものは、古典・文書を読み解くことができ、聖人の教えを知ることができるというのを第一にする。次は書道で、専門としていないとしても、書道には習熟しておくべきだ。次に医術を習ったほうが良い。自分の身を養生して、他人を助け、忠孝の勤めを果たす時には、医術を知らなければ成し遂げることができない。次に弓矢と乗馬で、中国古代の士官が習得すべき六芸にも挙げられている。必ずこれを身に付けておきたい。

文武と医術の道、これらは欠けてはならない能力である。これを学ぼうとする人を、無益なことをする人だと思ってはならない。次に食で、食は天の如く重要なものだ。美味しい料理を作る人は、大きな徳を持っていると言わなければならない。次に細工で、いろいろと必要が多いものだ。

これ以外の才能もあるが、多才は君子の恥とする事でもある。詩歌が巧みで、楽器を奏でるのは幽玄の道であるが、君臣がこれらを重視しても、今の世の中は幽玄さや優雅さで国を治める事などは出来ない。黄金(風雅)は美しいけれども、鉄(実務的技能)の利益の多さに及ばないのと同じことである。

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[古文]

第123段:無益のことをなして時を移すを、愚かなる人とも、僻事する人とも言ふべし。国のため、君のために、止むことを得ずして為すべき事多し。その余りの暇、幾ばくならず。思ふべし、人の身に止むことを得ずして営む所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。

人間の大事、この三つには過ぎず。餓ゑず、寒からず、風雨に侵されずして、閑かに過すを楽しびとす。ただし、人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁忍び難し。医療を忘るべからず。薬を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、欠けざるを富めりとす。この四つの外を求め営むを奢りとす。四つの事倹約ならば、誰の人か足らずとせん。

[現代語訳]

無益なことをして時を過ごす人は、愚かな人とも、不正なことをする人とも言うべきである。国の為、主君の為と、やむを得ずにしなければならないことは多い。それ以外の義務にとらわれない暇な時間というのは、ほとんどない。考えてみるといい、人間にとって絶対に必要とされるもの、第一に食べる物、第二に着る物、第三に住む場所である。

人間にとって大事なのは、この3つに過ぎない。餓えなくて、寒くなくて、雨風がしのげる家があるならば、後は閑かに楽しく過ごせば良いのだ。ただし、人には病気がある。病気に罹ってしまうと、その辛さは堪え難いものだ。だから医療を忘れてはならない。衣食住に医療と薬を加えた四つの事を求めても得られない者を貧者とする。この四つが欠けてない者を、金持ちとする。それ以上のことを望むのは、奢りである。四つの事でつつましく満足するなら、誰が足りないものなどあるだろうか。

[古文]

第124段:是法法師(ぜほうほうし)は、浄土宗に恥ぢずといへども、学匠を立てず、ただ、明暮念仏して、安らかに世を過す有様、いとあらまほし。

[現代語訳]

是法法師は、浄土宗に恥じない学識を持つ僧侶だったが、学者であることを表明せず、ただ毎日念仏を唱えて安らかに世を過ごしていた。その有様は、理想的な生き方である。

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