『徒然草』の133段~136段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の133段~136段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第133段:夜の御殿(おとど)は、東御枕(ひがしみまくら)なり。大方、東を枕として陽気を受くべき故に、孔子も東首し給へり。寝殿のしつらひ、或は南枕、常の事なり。白河院は、北首に御寝なりけり。『北は忌む事なり。また、伊勢は南なり。太神宮の御方を御跡にせさせ給ふ事いかが』と、人申しけり。ただし、太神宮(だいじんぐう)の遥拝(ようはい)は、巽(たつみ)に向はせ給ふ。南にはあらず。

[現代語訳]

上皇がお休みになる夜の寝殿では、枕を東向きにするのが決まりである。大体、太陽が昇る方角の東を枕とすれば、好ましい陽気を受けると言われており、中国の孔子も東を向いて寝たという。寝殿での布団と枕の配置も、東枕あるいは南枕というのが普通である。

白河上皇は、北枕で寝ておられた。『北は忌むべき方角です。また、皇室をお祭りする伊勢神宮は南の方角にあります。大神宮の方に足を向けて寝るのはいかがなものでしょうか?』と、ある人が申し上げた。しかし、天皇が京都の御所から大神宮を拝む時には、東南を向いて拝まれる。南の方角ではないのだ。

[古文]

第134段:高倉院の法華堂の三昧僧、なにがしの律師とかやいふもの、或時、鏡を取りて、顔をつくづくと見て、我がかたちの見にくく、あさましき事余りに心うく覚えて、鏡さへうとましき心地しければ、その後、長く、鏡を恐れて、手にだに取らず、更に、人に交はる事なし。御堂のつとめばかりにあひて、籠り居たりと聞き侍りしこそ、ありがたく覚えしか。

賢げなる人も、人の上をのみはかりて、己れをば知らざるなり。我を知らずして、外を知るといふ理あるべからず。されば、己れを知るを、物知れる人といふべし。かたち醜けれども知らず、心の愚かなるをも知らず、芸の拙きをも知らず、身の数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒すをも知らず、死の近き事をも知らず、行ふ道の至らざるをも知らず。身の上の非を知らねば、まして、外の譏りを知らず。但し、かたちは鏡に見ゆ、年は数へて知る。我が身の事知らぬにはあらねど、すべきかたのなければ、知らぬに似たりとぞ言はまし。かたちを改め、齢を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、何ぞ、やがて退かざる。老いぬと知らば、何ぞ、閑かに居て、身を安くせざる。行ひおろかなりと知らば、何ぞ、茲(これ)を思ふこと茲にあらざる。

すべて、人に愛楽せられずして衆に交はるは恥なり。かたち見にくく、心おくれにして出で仕へ、無智にして大才に交はり、不堪(ふかん)の芸を持ちて堪能(かんのう)の座に列り(つらなり)、雪の頭を頂きて盛りなる人に並び、況んや、及ばざる事を望み、叶はぬ事を憂へ、来らざることを待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の与ふる恥にあらず、貪る心に引かれて、自ら身を恥かしむるなり。貪る事の止まざるは、命の終ふる大事、今ここに来れりと、確かに知らざればなり。

[現代語訳]

高倉上皇の法華堂で仏道修行をしている僧侶で、なにがしの律僧と呼ばれる者がいた。ある日、その僧侶が鏡を手に取って自分の顔をつくづくと眺めてみると、自分の顔が醜くて見苦しいことに気づいて悩むようになった。鏡さえ疎ましく感じるようになって、その後は鏡を恐れて手にすら取らなくなった。更に、人と交わることもしないようになった。御堂の法華三昧の仕事にだけ精を出して、自分の部屋に引きこもっていると聞いたのだが、こういったことは有り得ないことではないと思った。

頭の良い人でも、、他人のことはよく見えても、意外に自分自身のことは知らない。自分のことを知らないのに、他人のことが分かるという道理はない。それでは、自分のことを知っている人を、物事を良く知っている人と言うべきだろうか。自分の容姿が醜くてもそれを知らず、心が愚かであることも知らず、自分の技芸の未熟さも知らず、自分の身分の低さも知らず、年老いているということも知らない、病気に罹っていることも知らず、死が迫っていることも知らず、仏道修行が不十分であることも知らない。

自分についての非難も知らないので、他人に対する誹謗ももちろん知らない。しかし、顔は鏡で見ることができるし、年齢は数えれば分かるものだ。自分のことをまったく知らないというわけではないが、欠点に対する対処法を知らなければ、知らないということと同じようなものだ。容姿を整えて年齢を若く見せろというわけではない。自分の未熟さや欠点を知ったならば、どうしてすぐに退かないのだ。老いたことを知ったならば、どうして静かに隠居して気持ちを安らかにしないのか。行いが愚かだと分かっているなら、どうしてこれだと思う正しいことをしないのか。

まったく、人に愛されていないというのに、人と交わろうとするのは恥である。容姿が醜いということで気後れしながら仕事をして、無知であるのに偉大な人たちの中に交じり、未熟なのにしたり顔をして、白髪頭で年老いているのに若い人の中に交じり、できもしないことを望んで、叶わないことが分かっている事に悩み、来るはずもない人を待ち、人を恐れて人に媚びている。これは、他人が与える恥ではなくて、自分の貪欲さに引き寄せられて、自分で自分を辱めているのである。貪欲の心が収まらないのは、命が終わる瞬間が、今ここに迫っているという実感がないからである。

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[古文]

第135段:資季大納言入道(すけすえのだいなごんにゅうどう)とかや聞えける人、具氏宰相中将(ともうじのさいしょうちゅうじょう)にあひて、『わぬしの問はれんほどのこと、何事なりとも答へ申さざらんや』と言はれければ、具氏、『いかが侍らん』と申されけるを、『さらば、あらがひ給へ』と言はれて、『はかばかしき事は、片端も学び知り侍らねば、尋ね申すまでもなし。何となきそぞろごとの中に、おぼつかなき事をこそ問ひ奉らめ』と申されけり。『まして、ここもとの浅き事は、何事なりとも明らめ申さん』と言はれければ、近習の人々、女房なども、『興あるあらがひなり。同じくは、御前にて争はるべし。負けたらん人は、供御(ぐご)をまうけらるべし』と定めて、御前にて召し合はせられたりけるに、具氏、『幼くより聞き習ひ侍れど、その心知らぬこと侍り。「むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんどう」と申す事は、如何なる心にか侍らん。承らん』と申されけるに、大納言入道、はたと詰りて、『これはそぞろごとなれば、言ふにも足らず』と言はれけるを、『本より深き道は知り侍らず。そぞろごとを尋ね奉らんと定め申しつ』と申されければ、大納言入道、負になりて、所課(しょか)いかめしくせられたりけるとぞ。

[現代語訳]

資季大納言入道(藤原資季)と言われた年配の人が。具氏宰相中将に会って、『おぬしの問う程度の質問であれば、どんなことでもお答え申し上げますぞ』と言った。それを聞いた具氏は、『それはどうでしょうか?』と答えた。資季大納言は『そう言うならば、私と言い争いをしてみよ』と返した。具氏は『取り立ててご質問するような学問のことは全く知りませんので、何ということのない取り止めの無いことの中から、はっきりとしないことを質問しても良いですか?』と返答した。

『もちろんである。そこらの簡単なことであれば、どんなことでも説明して上げよう』と大納言入道は答えた。二人の会話を聞いていた院の近習や女房などが、『興味を引かれる言い争いですね。同じ争うなら、ぜひ天皇の御前にて争われるべきですよ。そして負けた人が、酒宴の席を準備すれば良いのです』と言いルールを決めて、二人を天皇の御前に召しだしたのである。具氏が『幼い頃より聞いていたのですが、その問いの心が分からないものがございます。「むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんどう」と申す問いは、どういった意味なのでしょうか。承りたく存じます』と言った。

大納言入道ははたと答えに詰まって、『それは詰まらなさ過ぎる質問なので、答えるにも及ばない』などと言い出したが、具氏は『初めから深遠な学問のことなどは知らないので、とりとめもない事を尋ねても良いと定めておいたはずですよ』と申し上げた。結局、大納言入道は負けになってしまい、酒宴の準備の約束を盛大に果たされたということです。

[古文]

第136段:医師篤成(くすし・あつしげ)、故法皇の御前に候ひて、供御(ぐご)の参りけるに、『今参り侍る供物の色々を、文字も功能も尋ね下されて、そらに申し侍らば、本草に御覧じ合はせられ侍れかし。一つも申し誤り侍らじ』と申しける時しも、六条故内府参り給ひて、『有房(ありふさ)、ついでに物習ひ侍らん』とて、『先づ、「しほ」という文字は、いずれの偏にか侍らん』と問はれたりけるに、『土偏に候ふ』と申したりければ、『才の程、既にあらはれにたり。今はさばかりにて候へ。ゆかしき所なし』と申されけるに、どよみに成りて、罷り出で(まかりいで)にけり。

[現代語訳]

(生前の後宇多法皇に仕えていた)医師の篤成が、法皇の御前に御食事が運ばれてきた時に、 『いま参りますお食事の数々について、名前でも効能でも何でも尋ねて下されば、そらでお答えしましょう。後で医学書の「本草書」を参照されて下さいませ。私の答えに一つも間違いはございませんから』と(自慢げに)申し上げた。

そこに内大臣の源有房が参られて、『有房も、ついでに篤成殿に物を教えて貰いましょうか』と言って、質問をした。『まず、「しお」という文字は、どんな偏でしょうか』と問うと、『土偏にございます』答えたが、有房は『おぬしの才知の程は既に明らかになった。今はその程度で良いだろう。知りたい事はもうない』と言った。すると、周囲の人々もどっと笑い出して、篤成はたまらずにその場を退出した。

※『しお』には『塩』だけではなく『監』という異字があり、そのことを知らなかった医師の篤成の学識のレベルを、有房は揶揄したのである。法皇の前で知識自慢をして不遜な態度を取っていた医師篤成を、内大臣の源有房がウィットの効いた質問で戒めたというエピソードである。

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