『徒然草』の177段~180段の現代語訳

スポンサーリンク

兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の177段~180段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第177段:鎌倉中書王(ちゅうしょおう)にて御鞠(おんまり)ありけるに、雨降りて後、未だ庭の乾かざりければ、いかがせんと沙汰ありけるに、佐々木隠岐入道(おきのにゅうどう)、鋸(のこぎり)の屑(くず)を車に積みて、多く奉りたりければ、一庭に敷かれて、泥土の煩ひなかりけり。「取り留めけん用意、有り難し」と、人感じ合へりけり。

この事を或者の語り出でたりしに、吉田中納言の、「乾き砂子(すなご)の用意やはなかりける」とのたまひたりしかば、恥かしかりき。いみじと思ひける鋸の屑、賤しく、異様(ことよう)の事なり。庭の儀を奉行する人、乾き砂子を設くるは、故実なりとぞ。

[現代語訳]

鎌倉の中書王(後嵯峨天皇の第二皇子・宗尊親王)の御所で蹴鞠が催された時、雨が降ってきた後で庭がまだ乾いていなかったので、どうしようかと話し合っていると、佐々木隠岐入道が鋸で引いた後のおがくずを車一杯に積んで現れた。沢山のおがくずを庭に敷き詰めたので、泥水や泥土の心配は無くなった。『こんな時の為におがくずを用意しているというのはありがたい』と、人々は甚く感動した。

この鎌倉での出来事をある者が吉田中納言に語ると、『乾いた砂の用意はなかったのですか?』と言われてしまい、恥ずかしい思いをした。素晴らしいと思ったおがくずは、身分の低い者の適当な対処で、京都では異様なことでもある。貴人の庭の管理をする人は、雨・泥に備えて乾いた砂を用意しておくというのが、昔からの儀礼である。

[古文]

第178段:或所の侍(さぶらひ)ども、内侍所の御神楽を見て、人に語るとて、「宝剣をばその人ぞ持ち給ひつる」など言ふを聞きて、内なる女房の中に、「別殿(べつでん)の行幸(ぎょうこう)には、昼御座(ひのござ)の御剣(ぎょけん)にてこそあれ」と忍びやかに言ひたりし、心にくかりき。その人、古き典侍(ないしのすけ)なりけるとかや。

[現代語訳]

ある貴人の邸に仕える従者(家人)どもが、内侍所で行われた御神楽を見物して、『三種の神器の宝剣を、あの人が持たれているぞ』などと仲間同士で語り合っていると、近くの御簾の中にいた女房が、『(方違えのための)別殿の行幸の時は、それは(三種の神器の草薙の剣ではなくて)昼御座の御剣でございますよ』と密かに教えていた、心憎いことである。その女房は、古くから仕えている典侍だったという。

スポンサーリンク

[古文]

第179段:入宋(にっそう)の沙門(しゃもん)、道眼上人(どうげんしょうにん)、一切経を持来して、六波羅のあたり、やけ野といふ所に安置して、殊に首楞厳経(しゅりょうごんきょう)を講じて、那蘭陀寺(ならんだじ)と号す。

その聖の申されしは、「那蘭陀寺は、大門北向きなりと、江帥(ごうぞつ)の説として言ひ伝へたれど、西域伝・法顕伝などにも見えず、更に所見なし。江帥は如何なる才学にてか申されけん、おぼつかなし。唐土の西明寺(さいみょうじ)は、北向き勿論(もちろん)なり」と申しき。

[現代語訳]

宋で仏教を学んで帰国した僧侶の道眼上人は、一切経を持ち帰って京都の六波羅のあたり、やけ野という所に経を安置した。特に首楞厳経を講義して、その地に建てた寺を那蘭陀寺と呼んだ。

その道眼上人が、『天竺(インド)の那蘭陀寺の大門は北向きだと、江帥の説として伝え聞いているが、玄奘三蔵(三蔵法師)の『西域伝』や法顕上人の『法顕伝』などにはその記述がなく、更に他の文献でも見当たらない。江帥はどういう根拠で北向きだと言われたのかが分からない。唐の西明寺は、もちろん北向きなのだが』とおっしゃっていた。

[古文]

第180段:さぎちやうは、正月に打ちたる毬杖(ぎじょう)を、真言院より神泉苑(しんぜんえん)へ出して、焼き上ぐるなり。「法成就(ほうじょうじゅ)の池にこそ」と囃すは、神泉苑の池をいふなり。

[現代語訳]

家の前の篝火に色々なものを投げ入れて燃やすという『左義長(さぎちょう)』の行事では、正月に使った毬杖(毬を打つ杖)を真言院から出して、神泉苑で焼き上げるのだ。『法成就の池にこそ(弘法大師の奇跡に対する褒め言葉)』と囃すのは、神泉苑の池の事を言う。

スポンサーリンク
Copyright(C) 2004- Es Discovery All Rights Reserved