『徒然草』の181段~184段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の181段~184段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第181段:「『降れ降れ粉雪、たんばの粉雪』といふ事、米搗き(よねつき)篩ひ(ふるひ)たるに似たれば、粉雪といふ。『たまれ粉雪』と言ふべきを、誤りて『たんばの』とは言ふなり。『垣や木の股に』と謡ふべし」と、或物知り申しき。

昔より言ひける事にや。鳥羽院幼くおはしまして、雪の降るにかく仰せられける由、讃岐典侍(さぬきのすけ)が日記に書きたり。

[現代語訳]

「『ふれふれこゆき、丹波のこゆき』という童謡で、粉雪というのは米をついた粉をふるっている時の様子に似ているからである。『たんばの』は誤りであり、『たんまれ粉雪』というのが正しい。その後は『垣や木の股に』と歌っていくのだ」と、ある物知りが言っていた。

昔から謡われている歌なのか、讃岐典侍の日記には、鳥羽天皇の幼い頃、雪の降る日にこの歌を謡っていたと書いている。

[古文]

第182段:四条大納言(しじょうのだいなごん)隆親卿(たかちかのきょう)、乾鮭(からざけ)と言ふものを供御(くご)に参らせられたりけるを、「かくあやしき物、参る様あらじ」と人の申しけるを聞きて、大納言、「鮭といふ魚、参らぬ事にてあらんにこそあれ、鮭の白乾し(しらぼし)、何条事(なじょうこと)かあらん。鮎の白乾しは参らぬかは」と申されけり。

[現代語訳]

四条大納言隆親卿が、乾鮭というものを天皇の食卓にお届けしたのだが、『こんなあやしい魚を、天皇の御前にお出しするわけにはいかない』と人に言われたのを聞いて、四条大納言は『鮭という魚が天皇へお出しできないということはないだろう。鮭の乾したものに何か問題があるのだろうか、鮎の白乾しはお出しできないのか?』と言い返された。

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[古文]

第183段:人觝く(つく)牛をば角を截り(きり)、人喰ふ馬をば耳を截りて、その標(しるし)とす。標を附けずして人を傷らせ(やぶらせ)ぬるは、主の咎(とが)なり。人喰ふ犬をば養ひ飼ふべからず。これ皆、咎あり。律の禁(いましめ)なり。

[現代語訳]

人を突く牛は角を切り、人を咬む馬は耳を切って、危険な家畜の印とするのだ。印をつけずに人を傷つければ、家畜の主人の落ち度となる。人を咬む犬は飼ってはならない。これらはみな罪になる。これらは、王朝政治の礎となる律令の『律』で定められた禁令である。

[古文]

第184段:相模守時頼(さがみのかみときより)の母は、松下禅尼(まつしたのぜんに)とぞ申しける。守を入れ申さるる事ありけるに、煤け(すすけ)たる明り障子の破ればかりを、禅尼、手づから、小刀して切り廻しつつ張られければ、兄の城介義景(じょうのすけよしかげ)、その日のけいめいして候ひけるが、「給はりて、某男(なにがしおのこ)に張らせ候はん。さようの事に心得たる者に候ふ」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ」とて、なほ、一間(ひとま)づつ張られけるを、義景、「皆を張り替へ候はんは、遥かにたやすく候ふべし。斑ら(まだら)に候ふも見苦しくや」と重ねて申されければ、「尼も、後は、さはさはと張り替へんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見習はせて、心づけんためなり」と申されける、いと有難かりけり。

世を治むる道、倹約を本とす。女性なれども、聖人の心に通へり。天下を保つほどの人を子にて持たれける、まことに、ただ人にはあらざりけるとぞ。

[現代語訳]

鎌倉幕府第五代執権・相模守時頼(北条時頼)の母は、松下禅尼と言う尼僧であった。その松下禅尼の家に、息子の相模守を招待なされる事があり、家の者でその準備をしていた時、松下禅尼は手に小刀を持って、障子紙を切り回しながら香の煙で煤けた障子の破れた所だけを切り貼りしていた。松下禅尼の兄・城介義景が、その日の世話役として控えていたが、その様子を見て『その障子貼りのお仕事をいただいて他の者にやらせます。そのような事を心得た男がおりますので』といった。『だが、その男の細工はよもや尼の細工に勝りますまい』と松下禅尼は答えて、更に障子の破れを一間ずつ張り替え続けた。

『全部一気に貼り替える方がはるかに簡単です。それに、そのやり方だと新しい所と古い所でマダラになってしまうので、見苦しくありませんか?』と義景が申し上げた。『尼も、後にはさっぱりと全て貼り替えようとは思うが、今日ばかりはわざとこうしているのだ。物は、壊れた所だけを修理して用いるものだと、若い人に見習わせて覚えさせる為なのである』と松下禅尼はお答えになったが、とてもありがたいお言葉である。

世を治める道は倹約を基本としている。松下禅尼は女性といえども、聖人の心に通じておられる。やはり、天下を保つほどの人(北条時頼)を子としてお産みになっただけのことはある、本当に並の人間ではない。

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