『徒然草』の189段~192段の現代語訳

スポンサーリンク

兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の189段~192段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第189段:今日はその事をなさんと思へど、あらぬ急ぎ先づ出で来て紛れ暮し、待つ人は障りありて、頼めぬ人は来たり。頼みたる方の事は違ひて、思ひ寄らぬ道ばかりは叶ひぬ。煩はしかりつる事はことなくて、易かるべき事はいと心苦し。日々に過ぎ行くさま、予て(かねて)思ひつるには似ず。一年の中もかくの如し。一生の間もしかなり。

予てのあらまし、皆違ひ行くかと思ふに、おのづから、違はぬ事もあれば、いよいよ、物は定め難し。不定と心得ぬるのみ、実(まこと)にて違はず。

[現代語訳]

今日はあの事をやろうと考えていたら、思わぬ急用が出来てしまいそれに紛れて時間を過ごし、待っていた人は用事で来れなくなり、期待していない人が来たりもする。期待していた方面は駄目になり、思いがけない方面の事柄だけが思い通りになってしまったりもする。 面倒だと思ってきたことは何でもなくて、簡単に終わるはずだった事には苦労する。一年というのはこんなものだ。一生という時間もこんな風に過ぎていくだろう。

かねてからの予定は、全て計画と食い違ってしまうかと思えば、たまには予定通りに行く事もあるから、いよいよ物事というのは定めにくいものだ。予定なんて不定(未定)と考えていれば、実際の現実と大きく異なることはない。

[古文]

第190段:妻(め)といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰がしが婿に成りぬ」とも、また、「如何なる女を取り据ゑて、相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるるわざなり。殊なる事なき女をよしと思ひ定めてこそ添ひゐたらめと、苟しくも推し測られ、よき女ならば、らうたくしてぞ、あが仏と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家の内を行ひ治めたる女、いと口惜し。子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し。男なくなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。

いかなる女なりとも、明暮添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためも、半空(なかぞら)にこそならめ。よそながら時々通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊り居などせんは、珍らしかりぬべし。

[現代語訳]

妻というのは、男が持つべきものではない。『いつまでも独り者で』などと言われるのは心憎いものであるが、『誰それの婿になった』とか、また、『こういった女を家に連れ込んで、一緒に住んでいる』とか聞くと、その男をやたらと見下げてしまうような気持ちになる。格別の魅力がない女を素晴らしいと思い込んだ上で一緒になったと、無責任にも周囲から推測され、良い女であれば可愛がって自分の守り本尊のように崇め奉ってしまう(尻に敷かれてしまう)。

例えば、妻を持つことをその程度のものだと思ってしまう。更に、家を守って家政を司る女は、非常につまらない人生となる。子どもが出来れば、妻は大切に世話して可愛がるが、これも気分が沈む。夫が亡くなれば、貞節を通して尼となり年を重ねる。男というのは、死んでも妻に干渉しているのがあさましくて興醒めである。

どんな女であっても、朝から晩まで毎日見ていれば、ひどく気に食わないところが出てきて憎くなってしまう。女にとっても、嫌われつつも一緒にいて世話をしなければならない、そんな結婚は中途半端なものになってしまうだろう。他の場所から時々通い住むという通い婚こそ、年月を経ても絶えない男女の仲になるのではないか。不意に男がやって来て、そのまま一泊して帰るのは、きっと女にとっても新鮮な関係になるだろう。

スポンサーリンク

[古文]

第191段:「夜に入りて、物の映え(はえ)なし」といふ人、いと口をし。万のものの綺羅・飾り・色ふしも、夜のみこそめでたけれ。昼は、ことそぎ、およすけたる姿にてもありなん。夜は、きららかに、花やかなる装束、いとよし。人の気色も、夜の火影ぞ、よきはよく、物言ひたる声も、暗くて聞きたる、用意ある、心にくし。匂ひも、ものの音も、ただ、夜ぞひときはめでたき。

さして殊なる事なき夜、うち更けて参れる人の、清げなるさましたる、いとよし。若きどち、心止めて見る人は、時をも分かぬものならば、殊に、うち解けぬべき折節ぞ、褻(け)・晴(はれ)なくひきつくろはまほしき。よき男の、日暮れてゆするし、女も、夜更くる程に、すべりつつ、鏡取りて、顔などつくろひて出づるこそ、をかしけれ。

[現代語訳]

『夜になると、物の見映えがしない』と言う人は、全く残念な美意識の持ち主である。全てのものの美しさ・装飾・色合いなども、夜こそが素晴らしい。昼なんかは簡素で地味な姿でいても良いだろう。夜は、煌びやかで華やかな装束がとても似合って良いのだ。人の気配にしても夜の火影のもとなら、美しい人はさらに美しく見えるし、話している声も、暗い場所で聞いていると、声をひそめる気配りがされているので、心引かれるものがある。匂いも声も、夜の時間帯のほうがひときわ素晴らしい。

取り立てて何という事もない夜、夜更けに参上した人が、とても清らかなすっきりした顔をしているのが良い。若い者同士でお互いを注意して見る時には、時間の区別もなくなってしまうものだが、特に打ち解けあう機会には、ハレとケの区別もせずに身だしなみを整えていて欲しいものだ。身分のある男が、日が暮れてから髪を洗い、女も夜更けに廊下を静かに滑るように退席し、鏡を取って顔(化粧)をつくろってから男の前に再び出る、こういった場面に情趣があるのである。

[古文]

第192段:神・仏にも、人の詣でぬ日、夜参りたる、よし。

[現代語訳]

神社の神・寺院の仏には、人が詣でる事のない日(神社の祭日や寺院の行事などが無い日)の夜に参るのが良い。

スポンサーリンク
Copyright(C) 2004- Es Discovery All Rights Reserved