『徒然草』の223段~226段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の223段~226段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第223段:鶴(たづ)の大臣殿は、童名(わらわな)、たづ君なり。鶴を飼ひ給ひける故にと申すは、僻事(ひがこと)なり。

[現代語訳]

鶴の大臣(九条基家)は幼い頃に『鶴君』と呼ばれた。鶴を飼っていたから鶴大臣だというのは間違いである。

[古文]

第224段:陰陽師有宗入道(ありむねにゅうどう)、鎌倉より上りて、尋ねまうで来りしが、先づさし入りて、『この庭のいたづらに広きこと、あさましく、あるべからぬ事なり。道を知る者は、植うる事を努む。細道一つ残して、皆、畠(はたけ)に作り給へ』と諌め侍りき。

まことに、少しの地をもいたづらに置かんことは、益なき事なり。食ふ物・薬種など植ゑ置くべし。

[現代語訳]

陰陽師の安倍有宗(あべのありむね)が、鎌倉より京に上ってきて我が家(兼好の家)に訪ねて来られた。まず家に入ってきて、『この家の庭はいたずらに広くて、みっともないものである。道を知る者ならば、まず作物を植えるように努める。細い道一つを残してみんな畑にしてはどうか』と諌められた。

確かに、少しの土地でもいたずらに広く置いておくことは無益(欲深)である。野菜や薬草でも植えておいたほうが良い(そちらのほうがまだ有益だ)。

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[古文]

第225段:多久資(おおのひさすけ)が申しけるは、通憲入道(みちのりにゅうどう)、舞の手の中に興ある事どもを選びて、磯の禅師といひける女に教えて舞はせけり。白き水干(すいかん)に、鞘巻(さやまき)を差させ、烏帽子(えぼし)を引き入れたりければ、男舞とぞ言ひける。禅師が娘、静と言ひける、この芸を継げり。これ、白拍子(しらびょうし)の根元なり。仏神の本縁を歌ふ。その後、源光行、多くの事を作れり。後鳥羽院の御作(ごさく)もあり、亀菊(かめぎく)に教えさせ給ひけるとぞ。

[現代語訳]

多久資という朝廷に勤めた楽人が申し上げるには、通憲入道が舞いの中から特に面白いのを選び、後に『磯の禅師(静御前の母親)』と呼ばれることになる妻に教えて舞わせたという。この時の舞いの衣装は、男物の白い着物の水干であり、腰に刀を差して、長い髪を烏帽子に引き入れていたので『男舞』と言われた。磯の禅師の娘は静御前(源義経の愛人)といって、この芸を引き継いだ。これが『白拍手』という舞いの元祖なのである。神仏の由来を歌いながら舞うものだ。その後、源光行が多くの舞いを創作した。後鳥羽院も多くの舞いを作り、愛妾の『亀菊(承久の乱の一因になったとも言われる女性)』に教えられたということである。

[古文]

第226段:後鳥羽院の御時、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、稽古の誉(ほまれ)ありけるが、楽府(がふ)の御論議(みろんぎ)の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名を附きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚(じちんおしょう)、一芸ある者をば、下部までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持(ふち)し給ひけり。

この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゆしく書けり。九郎判官(くろうほうがん)の事は委しく(くわしく)知りて書き載せたり。蒲冠者(かばのかんじゃ)の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の業(わざ)は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。

[現代語訳]

後鳥羽院の御時、信濃の国司であった中山行長は、学問の道での誉れが高かった。しかし、『白氏文集』の論議の席において意見を求められた時に『七徳の舞』のうちの二つを忘れてしまい、『五徳の冠者』という不名誉な渾名を付けられてしまった。行長はそのことを悩んでしまい、学問を捨てて遁世してしまった。慈鎮和尚は、一芸ある者を厚遇しており、身分の低い者でも技能がある者であれば召しかかえた。そして、この信濃の出家者である行長も召しかかえて面倒を見たのである。

この行長入道が『平家物語』を作って、生仏という名の盲目の法師に教えて語らせた。さて、山門(比叡山延暦寺)の事は格別に詳しく書けた。九郎判官(源義経)の事は詳しく知っていて書き記しているが、蒲冠者(源範頼)の事はよく知らなかったのだろうか、多くの事を書き漏らしている。武士のこと、弓馬の道については、生仏が東国の生まれであることもあり、武士に詳しく聞いてから書いたのだろう。その生仏の生れつきの声を、今の琵琶法師は学んでいるのである。

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