『源氏物語』の現代語訳:桐壺3

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紫式部が平安時代中期(10世紀末頃)に書いた『源氏物語(げんじものがたり)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『源氏物語』は大勢の女性と逢瀬を重ねた貴族・光源氏を主人公に据え、平安王朝の宮廷内部における恋愛と栄華、文化、無常を情感豊かに書いた長編小説(全54帖)です。『源氏物語』の文章は、光源氏と紫の上に仕えた女房が『問わず語り』したものを、別の若い女房が記述編纂したという建前で書かれており、日本初の本格的な女流文学でもあります。

『源氏物語』の主役である光源氏は、嵯峨源氏の正一位河原左大臣・源融(みなもとのとおる)をモデルにしたとする説が有力であり、紫式部が書いた虚構(フィクション)の長編恋愛小説ですが、その内容には一条天皇の時代の宮廷事情が改変されて反映されている可能性が指摘されます。紫式部は一条天皇の皇后である中宮彰子(藤原道長の長女)に女房兼家庭教師として仕えたこと、『枕草子』の作者である清少納言と不仲であったらしいことが伝えられています。『源氏物語』の“はかなく日頃すぎて~”が、このページによって解説されています。

参考文献
『源氏物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),玉上琢弥『源氏物語 全10巻』(角川ソフィア文庫),与謝野晶子『全訳・源氏物語 1~5』(角川文庫)

[古文・原文]

はかなく日ごろ過ぎて、後のわざなどにもこまかにとぶらはせ給ふ。ほど経るままに、せむ方なう悲しう思さるるに、御方がたの御宿直なども絶えてし給はず、ただ涙にひちて明かし暮らさせたまへば、見たてまつる人さへ露けき秋なり。『亡きあとまで、人の胸あくまじかりける人の御おぼえかな』とぞ、弘徽殿(こきでん)などにはなほ許しなうのたまひける。一の宮を見たてまつらせ給ふにも、若宮の御恋しさのみ思ほし出でつつ、親しき女房、御乳母(おんめのと)などを遣はしつつ、ありさまを聞こし召す。

野分立ちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦(ゆげいのみょうぶ)といふを遣はす。夕月夜(ゆうづくよ)のをかしきほどに出だし立てさせ給ひて、やがて眺めおはします。かうやうの折は、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞え出づる言の葉も、人よりは異なりしけはひ容貌(かたち)の、面影につと添ひて思さるる(おぼさるる)にも、 闇の現(うつつ)にはなほ劣りけり。

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[現代語訳]

いつのまにか日数は過ぎていき、後の法要などの折にも、帝は情愛をこまやかにしてお見舞いをお遣わしあそばす。時が過ぎてゆくにしたがって、どうしようもなく悲しく思われるので、女御・更衣がたの夜の御伺候(お相手)などもすっかりお命じになることがなく、ただ涙に濡れて日をお送りあそばされていて、帝に拝謁する人までが露っぽくなる秋の季節だ。『亡くなった後にまで、人の心を晴ればれとさせない御寵愛の深さですね』と、弘徽殿の女御などは、今もなお情けを持たずにおっしゃるのであった。皇太子の一の宮とお会いになる時であっても、桐壺が残していった若宮の恋しさだけが思い出されて、親しく仕える女房・御乳母などを頻繁にお遣わしになっては、若宮のご様子をお尋ねになられている。

風が野分けめいてきて(野の草を掻き分けるほどに強くなってきて)、急に肌寒くなった夕暮れ時、帝は普段より桐壺のことを思い出されることが多くて、靫負命婦という者を遣いに立てた。夕月夜の美しい時刻に出発させて、そのまま物思いに耽っていた。このような時には、桐壺の生前には管弦のお遊びなどでお楽しみになられたが、桐壺は特別に優れた琴の音を掻き鳴らし、詩歌の才能にも秀でていた。人とは異なって美しかった桐壺の雰囲気や顔かたちが、面影となってわが身に寄り添うように思い出されるのだが、どんなに素晴らしい幻(思い出)も、闇の中の現実にはやはり劣ってしまう。

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[古文・原文]

命婦(みょうぶ)、かしこに参で(まかで)着きて、門引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、めやすき程にて過ぐし給ひつる、闇に暮れて臥し沈み給へるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ、八重葎(やえむぐら)にも障らず差し入りたる。

南面に下ろして、母君も、とみにえ物ものたまはず。(桐壺の母)『今までとまり侍るがいと憂きを、かかる御使の、蓬生(よもぎふ)の露分け入り給ふにつけても、いと恥づかしうなむ』とて、げにえ堪ふまじく泣い給ふ。(命婦)「『参りては、いとど心苦しう、心肝も尽くるやうになむ』と、典侍のすけの奏し給ひしを、もの思ひ給へ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたう侍りけれ」とて、ややためらひて、仰せ言伝へ聞ゆ。

(命婦)「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひ合はすべき人だになきを、忍びては参り給ひなむや。若宮のいとおぼつかなく、露けき中に過ぐし給ふも、心苦しう思さるるを、とく参りたまへ』など、はかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせ給ひつつ、かつは人も心弱く見たてまつるらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに、承り果てぬやうにてなむ、まかで侍りぬる」とて、御文奉る。(桐壺の母)『目も見え侍らぬに、かくかしこき仰せ言を光にてなむ』とて、見たまふ。

[現代語訳]

遣いの命婦が故大納言家に着いて、車が門から中へ引き入れられた時から、物悲しい雰囲気が漂っている。末亡人の母の独り暮らしの家であるが、一人娘のために住居の外見などにみすぼらしさがないようにと、体裁を繕って暮らしていたのであるが、子を失って落ち込んでからは、庭の草が伸びて背が高くなり、最近の野分の風でいっそう邸内が荒れた感じがする。月光だけは伸びた草を障害にもせずに、邸内へと射し込んでいる。

月明かりが射し込む南向きの座敷に命婦を招き入れた女主人は、すぐに物も言えないほどの落ち込みである。(桐壺の母)『今まで生き長らえておりましただけでもとても情けないことなのに、このようなお遣いが草深い我が家の露を分けてお訪ね下さることに対しても、非常に恥ずかしい思いを致しております。』と言って、これ以上は堪えられないだろうと思われるほどにお泣きになる。(命婦)「『女主人の元をお訪ねしたところ、とてもお気の毒な感じで、心も魂も消え入るようでした』と、典侍が帝に奏上されていたのですが、物の情趣を理解していない私のような者でも、なるほど本当に忍びがたいほどに悲しみを感じます。」と言ってから、しばらくして命婦は帝の仰せを伝えた。

「『しばらくの間は夢だとばかり思わずにはいられなかったが、次第に心が静まるにつれて、逆に覚めるはずもないほど堪えがたいのは、どのようにしたら良いのだろうか。相談できる相手も身近にいないので、人目につかないようにして参内することはできないだろうか。若宮のことがとても気がかりで、湿っぽい場所で過ごしていることも、心苦しく思っているので、早く参内しなさい。』などと、はっきりとは最後まで仰せになられず、涙にむせ返りながら、また周囲も帝が気弱になっておられるなとご心配されている様子が痛々しくて、最後まで承らないような形で、退出いたしてここへと参りました」と言って、帝からのお手紙を差し上げる。(桐壺の母)『目も見えませんが(涙で目も良く見えないのですが)、このような帝の畏れ多いお言葉を光明と致します」と言って、御覧になられる。

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[古文・原文]

『ほど経ば少し打ち紛るる事もやと、待ち過ぐす月日に添へて、いと忍びがたきは、わりなきわざになむ。いはけなき人をいかにと思ひやりつつ、もろともに育まぬおぼつかなさを、今はなほ、昔の形見になずらへてものし給へ』など、こまやかに書かせ給へり。

『宮城野の 露吹きむすぶ 風の音に 小萩がもとを 思ひこそやれ』とあれど、え見たまひ果てず。

(桐壺の母)『命長さの、いとつらう思ひ給へ知らるるに、松の思はむことだに、恥づかしう思ひ給へはべれば、百敷(ももしき)に行きかひ侍らむことは、ましていと憚り多くなむ。かしこき仰せ言をたびたび承りながら、みづからはえなむ思ひ給へたつまじき。若宮は、いかに思ほし知るにか、参り給はむことをのみなむ、思し急ぐめれば、ことわりに悲しう見奉り侍るなど、うちうちに思ひ給ふるさまを奏し給へ。ゆゆしき身に侍れば、かくておはしますも、忌ま忌ましうかたじけなくなむ』と宣ふ。

[現代語訳]

(帝)『時が経てば少しは気持ちの紛れることもあろうかと、心待ちに過ごす月日が流れるにつれて、どうしてもつらくて我慢できなくなるのはどうにもならないことだ。幼い若宮がどうしているかと心配しながら、一緒にお育てしていないことが気がかりである。今は、やはり故人の形見だと思って、参内なされよ。』などと、心こまやかにお書きになられていた。

『宮中の萩に野分が吹きつけて、露を結ばせたり散らそうとする風の音を聞いていると、幼子の身が思いやられることよ』という御歌もあるが、涙が溢れて最後まで読み切ることができない。

(桐壺の母)『長生きがとてもつらいことだと感じられ、(古今和歌集にある高砂の松の歌のように)世間に対しても恥ずかしい気持ちでいますので、宮中・内裏に参上致すことなどはとても憚りが多いことです。畏れ多いお誘いのお言葉をたびたび承りながらも、私はとても参内を決断することができません。若宮はどのようにお考えになっているのか、宮中に急いで参内したい(父上にお会いしたい)という様子を見せていますので、私は父子の情愛を考えればもっともなことであると悲しく若宮のことを拝見しております。私が若宮のことをご不憫に感じている旨を、ひそかに帝に奏上なさって下さい。(夫・娘を相次いで亡くしたという)不幸の多い身で、こうして高貴な若宮と一緒に暮らしておりますのは、忌まわしくも畏れ多いことでございますから。』とおっしゃった。

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