『源氏物語』の現代語訳:桐壺5

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紫式部が平安時代中期(10世紀末頃)に書いた源氏物語の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『源氏物語』は大勢の女性と逢瀬を重ねた貴族・光源氏を主人公に据え、平安王朝の宮廷内部における恋愛と栄華、文化、無常を情感豊かに書いた長編小説(全54帖)です。『源氏物語』の文章は、光源氏と紫の上に仕えた女房が『問わず語り』したものを、別の若い女房が記述編纂したという建前で書かれており、日本初の本格的な女流文学でもあります。

『源氏物語』の主役である光源氏は、嵯峨源氏の正一位河原左大臣・源融(みなもとのとおる)をモデルにしたとする説が有力であり、紫式部が書いた虚構(フィクション)の長編恋愛小説ですが、その内容には一条天皇の時代の宮廷事情が改変されて反映されている可能性が指摘されます。紫式部は一条天皇の皇后である中宮彰子(藤原道長の長女)に女房兼家庭教師として仕えたこと、『枕草子』の作者である清少納言と不仲であったらしいことが伝えられています。『源氏物語』の“命婦は、『まだ大殿籠もらせたまはざりける』と~”が、このページによって解説されています。

参考文献
『源氏物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),玉上琢弥『源氏物語 全10巻』(角川ソフィア文庫),与謝野晶子『全訳・源氏物語 1~5』(角川文庫)

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[古文・原文]

命婦は、『まだ大殿籠もらせ給はざりける』と、あはれに見奉る。御前の壺前栽(せんざい)のいとおもしろき盛りなるを、御覧ずるやうにて、忍びやかに、心にくき限りの女房四五人さぶらはせ給ひて、御物語せさせ給ふなりけり。このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌(ちょうごんか)の御絵、亭子院(ていしいん)の描かせ給ひて、伊勢貫之に詠ませ給へる、大和言の葉をも、唐土(もろこし)の詩(うた)をも、ただその筋をぞ、枕言にせさせ給ふ。

いとこまやかにありさま問はせ給ふ。あはれなりつる事、忍びやかに奏す。御返り御覧ずれば、

(母君)『いともかしこきは、置き所も侍らず。かかる仰せ言につけても、かきくらす乱り心地になむ。

荒き風 ふせぎし蔭の 枯れしより 小萩がうへぞ 静心なき』

などやうに乱りがはしきを、心をさめざりけるほどと御覧じ許すべし。いとかうしも見えじと、思し静むれど、さらにえ忍びあへさせ給はず、御覧じ初めし年月の事さへ、かき集め、よろづに思し続けられて、『時の間もおぼつかなかりしを、かくても月日は経にけり』と、あさましう思し召さる。

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[現代語訳]

命婦は、『帝はまだお寝みあそばされていなかったのですね』と、しみじみと見ておられる。御前にある壺前栽がたいそう美しい盛りで咲いているのを御覧あそばされるようにして、密やかに教養のある女房ばかり四、五人を伺候させて、お話をしていらっしゃるのであった。最近、帝が毎日御覧になっているのは玄宗皇帝と楊貴妃の恋を題材にした長恨歌の御絵、その絵は亭子院がお描きになったもので、伊勢や貫之に和歌を詠ませなさったりもした。日本の和歌や唐土の漢詩なども、ひたすらその方面の文学芸術を、日常の話題にあそばされている。たいそう詳しく里の様子をお尋ねになられる。しみじみとした里の趣きについてひそかに奏上している。未亡人のご返事を御覧になると、

(桐壺の母君)『帝からのたいへんに畏れ多いお手紙を頂戴いたしまして、どうしてよいか分かりません。このようなお言葉を拝見致しましても、愚かな私めの心の中は真っ暗な闇に包まれて思い乱れております。

荒い風を防いでいた木が枯れてしまってからは、小萩の身の上が気がかりでならないのです』

などとやや不謹慎な言葉が書かれているのを、今は娘を失った気持ちが静まらない時だろうからと、帝は寛大なお気持ちで御覧になられている。決してこのように取り乱した姿は見せまいと、気持ちをお静めになさっているが、完全には堪えることができなくなり、初めて桐壺をお召しあそばされた年月のことまでも色々と思い出されて、何から何まで思い続けておられる。帝は『片時の間さえも離れてはいられなかったのに、よくもこう長い月日を耐えて過ごせたものだ(一人で生きていられるものだ)』と、ご自分を責めて情けなくお思いになられている。

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[古文・原文]

(帝)『故大納言の遺言あやまたず、宮仕への本意深くものしたりし喜びは、かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ。言ふかひなしや』とうち宣はせて、いとあはれに思しやる。(帝)『かくても、おのづから若宮など生ひ出で給はば、さるべきついでもありなむ。命長くとこそ思ひ念ぜめ』など宣はす。かの贈り物御覧ぜさす。『亡き人の 住処尋ね出でたり けむしるしの 釵ならましかば』と思ほすもいとかひなし。

(帝)『尋ねゆく 幻もがな つてにても 魂のありかを そこと知るべく』

絵に描ける楊貴妃の容貌(かたち)は、いみじき絵師といへども、筆限りありければ、いとにほひ少なし。太液(たいえき)の芙蓉未央(ふようびおう)の柳も、 げに、通ひたりし容貌を、唐(から)めいたる装ひは、うるはしうこそありけめ、なつかしうらうたげなりしを思し出づるに、花鳥の色にも音にも、よそふべき方ぞなき。朝夕の言種(ことぐさ)に、『翼をならべ、枝を交はさむ』と契らせ給ひしに、かなはざりける命のほどぞ、尽きせず恨めしき。

風の音、虫の音につけて、もののみ悲しう思さるるに、弘徽殿(こきでん)には、久しく上の御局にも参う(もう)上りたまはず、月のおもしろきに、夜更くるまで、遊びをぞし給ふなる。いとすさまじう、ものしと、聞こし召す。このごろの御気色を見奉る上人・女房などは、かたはらいたしと聞きけり。いとおし立ちかどかどしき所ものし給ふ御方にて、ことにもあらず思し消ちて、もてなし給ふなるべし。月も入りぬ。

[現代語訳]

(帝)『故大納言の遺言に背かずに、宮仕えの宿願をよく果たした未亡人に報いるには、桐壺の更衣を後宮の高い位置に就けてあげることだと思い続けていたのだが、亡くなってしまってはどうしようもないことだ。』とふとおっしゃられて、たいそう気の毒にと思いを馳せられている。『仕方が無い部分もあるが、いずれ若宮がご成長されたならば、未亡人の思いに報いるべき(故人に后の位を贈れる)機会がきっとあるであろう。長生きをしてそれまでじっと耐えてもらいたい。』などとおっしゃられる。命婦は未亡人からの贈り物を帝の御前に並べた。『これが唐の方師が亡くなった楊貴妃に会ってもらってきた玉の簪であったら良いのにな』と、帝はどうしようも無いことをお思いになった。

『亡き更衣を探しに行ける幻術士(呪術師)がいてくれれば良いのだが、人づてにでも魂のありかがどこなのかを知ることができるように』

絵に描いてある楊貴妃の容貌は、上手な絵師であっても現実を再現する筆力には限界があるので、生きている人間のような生気・香りが少ない。『太液の芙蓉(蓮華)・未央宮の柳』という句にあるような美しさに楊貴妃は似ていたのだろうし、唐風の衣裳をまとった姿は綺麗ではあったろうが、更衣の持っていた柔らかい美しさや艶のあるお姿をお思い出しになると、それは花の色や鳥の声では喩えようがない最上の美しさであった。朝夕、口癖のように『比翼の鳥となり、連理の枝となろう』と永遠の愛をお約束なされていたのに、思うようにならなかった愛する人の運命が、尽きることなく恨めしかった。

風の音や虫の音を聞くにつけて、何となくひたすらに悲しく思われるのだが、弘徽殿の女御におかれては、久しく上の御局にもお上がりにならず、月が美しいので、夜が更けるまで管弦の遊びをなさっているようだ。実に興ざめなことで、不愉快に感じると帝はお聞きあそばす。最近の帝のご様子を見ている殿上人・女房などは、落ち着かないはらはらとする思いでその音楽を聞いていた。帝はたいへんに気が強くて負けず嫌いの性質なので、更衣の死を何とも思っていないという風に見せかけているのだった。月も沈んでしまった。

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[古文・原文]

『雲の上も 涙にくるる 秋の月 いかですむらむ 浅茅生の宿』

思し召しやりつつ、灯火をかかげ尽くして起きおはします。右近の司の宿直奏の声聞こゆるは、丑になりぬるなるべし。人目を思して、夜の御殿(おとど)に入らせ給ひても、まどろませ給ふこと、かたし。朝(あした)に起きさせ給ふとても、『明くるも知らで』と思し出づるにも、なほ朝政は怠らせ給ひぬべかめり。

ものなども聞こし召さず、朝餉(あさがれひ)のけしきばかり触れさせ給ひて、大床子(だいしょうじ)の御膳(おもの)などは、いと遥かに思し召したれば、陪膳に侍ふ限りは、心苦しき御気色を見奉り嘆く。すべて近う侍ふ限りは、男女、『いとわりなきわざかな』と言ひ合はせつつ嘆く。『さるべき契りこそはおはしましけめ。そこらの人の誹り恨みをも憚らせ給はず、この御ことに触れたる事をば、道理をも失はせ給ひ、今はた、かく、世の中の事をも、思ほし棄てたるやうになりゆくは、いとたいだいしきわざなり』と、人の朝廷(みかど)の例まで引き出で、ささめき嘆きけり。

[現代語訳]

(帝)『雲の上の宮中までも涙に曇ってしまうような秋の月。どのようにすれば澄んで見えるとでも言うのか、このような草深い里で』

思いやりになりながら、明かりの灯芯を立てて油が尽きるまで起きておいでになる。右近衛府の役人の宿直申しの声が聞こえてくるのは、もう丑の刻になったのだろう。人目を気になされて、夜の御殿にお入りになられても、うとうとまどろみになられることさえも難しい。朝になって起きようとしても、『夜の明けるのも分からないで(更衣と親しく語り合ったことよ)』と思い出しなされて、やはり政治を取り仕切ることに気が回らず、怠りがちになってしまいそうだ。

お食事などもお召し上がりにならず、朝餉(朝ごはん)には形だけお箸をおつけになるが、大床子の上の御膳などは、まったく目に入らないかのように手をおつけにならないので、給仕の人たちはみんな、おいたわしいご様子を目にして嘆いている。総じて、お側近くにお仕えする人たちは、男も女も、『非常に困ったことですよ』と言い合っては溜息をついている。『こうなってしまうような前世からの因縁があったのでしょう。大勢の人びとの非難・嫉妬をもお憚りになることはなく、あの方の事に関してだけは、御分別を失っておられるし、今は今で、このように政治を仕切ることもお捨てになっているような状況で、非常に困ったことだ』と、唐(中国)の朝廷の例まで引き合いに出して、ひそひそと嘆息しているのであった。

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