『源氏物語』の現代語訳:桐壺7

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紫式部が平安時代中期(10世紀末頃)に書いた源氏物語の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『源氏物語』は大勢の女性と逢瀬を重ねた貴族・光源氏を主人公に据え、平安王朝の宮廷内部における恋愛と栄華、文化、無常を情感豊かに書いた長編小説(全54帖)です。『源氏物語』の文章は、光源氏と紫の上に仕えた女房が『問わず語り』したものを、別の若い女房が記述編纂したという建前で書かれており、日本初の本格的な女流文学でもあります。

『源氏物語』の主役である光源氏は、嵯峨源氏の正一位河原左大臣・源融(みなもとのとおる)をモデルにしたとする説が有力であり、紫式部が書いた虚構(フィクション)の長編恋愛小説ですが、その内容には一条天皇の時代の宮廷事情が改変されて反映されている可能性が指摘されます。紫式部は一条天皇の皇后である中宮彰子(藤原道長の長女)に女房兼家庭教師として仕えたこと、『枕草子』の作者である清少納言と不仲であったらしいことが伝えられています。『源氏物語』の“年月にそへて、御息所の御ことを~”が、このページによって解説されています。

参考文献
『源氏物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),玉上琢弥『源氏物語 全10巻』(角川ソフィア文庫),与謝野晶子『全訳・源氏物語 1~5』(角川文庫)

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[古文・原文]

年月に添へて、御息所(みやすどころ)の御ことを思し忘るる折なし。『慰むや』と、さるべき人びと参らせ給へど、『なづらひに思さるるだにいとかたき世かな』と、疎ましうのみ、よろづに思しなりぬるに、先帝の四の宮の、御容貌(おかたち)すぐれ給へる聞こえ高くおはします、母后(ははぎさき)世になく かしづき聞こえ給ふを、主上に侍ふ典侍は、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参り馴れたりければ、いはけなくおはしましし時より見奉り、今もほの見奉りて、『亡せ給ひにしに御息所の御容貌に似たまへる人を、三代の宮仕へに伝はりぬるに、え見奉りつけぬを、后の宮の姫宮こそ、いとようおぼえて生ひ出でさせ給へりけれ。ありがたき御容貌人になむ』と奏しけるに、『まことにや』と、御心とまりて、ねむごろに聞こえさせ給ひけり。

母后、『あな恐ろしや。春宮の女御のいとさがなくて、桐壺の更衣のあらはにはかなくもてなされにし例もゆゆしう』と、思しつつみて、すがすがしうも思し立たざりけるほどに、后も亡せ給ひぬ。

心細きさまにておはしますに、『ただ、わが女皇女たちの同じ列に思ひ聞こえむ』と、いとねむごろに聞こえさせ給ふ。侍ふ人びと、御後見たち、御兄の兵部卿の親王など、『かく心細くておはしまさむよりは、内裏住みせさせ給ひて、御心も慰むべく』など思しなりて、参らせ奉り給へり。

藤壺と聞こゆ。 げに、御容貌ありさま、あやしきまでぞおぼえ給へる。これは、人の御際まさりて、思ひなしめでたく、人もえおとしめ聞こえ給はねば、うけばりて飽かぬことなし。かれは、人の許し聞こえざりしに、御心ざしあやにくなりしぞかし。思し紛るとはなけれど、おのづから御心移ろひて、こよなう思し慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり。

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[現代語訳]

年月が流れても、帝は御息所(桐壺の更衣)との死別の悲しみをお忘れになる時がない。『お心を慰めることができるだろうか』と、好みに合いそうなご婦人を後宮にお召しになるが、『せめて桐壺に準ずるという程に思える人さえめったにいない世の中である』と、万事が厭わしく思われていたところ、先帝の四の宮で、ご容貌が優れて美しいという評判が高い女性がいて、母后がその方をこの上なく大切にお世話申されていられるという。主上にお仕えする典侍は、先帝の御代からの人であり、あちらの宮にも親しく参上して馴染みがあったので、ご幼少の時からその女性を拝見しており、今でもちらっと拝見したところ、『お亡くなりになった御息所のご容貌に似ていらっしゃるという方は、三代の帝にわたり宮仕えしていましても、一人も見つけることができませんでしたが、その后の宮の姫宮さまは、とてもよく似たご様子で成長あそばされています。世に稀な美しい器量を備えた方でございます。』と奏上したところ、『それは本当か』とお心が動き、丁重に礼を尽くして先帝の后の宮へ、姫宮の御入内をお申し込みされたのであった。

あの祖母の北の方(桐壺の母)は、悲しみを晴らす方法もなく気持ちが沈んでいらっしゃり、せめて死んだ娘のいる所にでも尋ねて行きたいと願っておられたが、その事もあってか、とうとうお亡くなりになってしまった。また帝がこのことを悲しくお思いになられることは、この上もないほどである。御子は6歳になられたので、今度は(まだ幼かった更衣の時とは違って)事情をお分かりになって、祖母を恋い慕ってお泣きになられた。長年、親しく世話をしてきた若君を、後に残して先立つのが悲しいと、祖母(未亡人)は繰り返し繰り返しおっしゃっていた。

それを聞いた母后は、『まぁ怖いこと。東宮の母女御がとても意地が悪くて、桐壺の更衣が露骨ないやがらせで命を奪われてしまった例も不吉ですし。』と躊躇われていて、簡単にはご決心がつかなかったが、そのうちにその母后はお亡くなりになってしまわれた。

母后を亡くした姫君は心細い様子でいらっしゃるので、『女御ではなく、ただ自分の姫の皇女たちと同じような扱いでお迎えしたい』と、帝はたいそう丁重に礼を尽くして入内をお勧めになる。お仕えする女房たちや後見人たち、ご兄弟の兵部卿の親王などは『このようにして心細くおいでになるよりは、内裏でお暮らしあそばされたほうが、きっとお心が慰められるのでは』などとお考えになり、姫君を帝の元へ参内させることになった。

(この姫君は)藤壺と申し上げる。本当に、ご容貌やその姿は不思議なほどに桐壺によく似ていらっしゃった。このお方は、ご身分も相当に高いので、そう思って見ているせいか素晴らしさが増し、他の女御・更衣も貶めていじめることはできないので、藤壺は誰に憚ることもなく何の不足もない。桐壺の更衣のほうは、周囲の人がお許し申さなかった状況で、帝の御寵愛が憎らしいと思われるほどに深かった。かつての桐壺へのご愛情が薄れてしまうというのではないが、自然と帝のお心が藤壺へと移っていかれ、特別にお慰みになっているのも、(永遠不滅の愛情を持ち得ない)変わりゆく人情の哀しい本性というものである。

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[古文・原文]

源氏の君は、御あたり去り給はぬを、ましてしげく渡らせ給ふ御方は、え恥ぢあへ給はず。いづれの御方も、われ人に劣らむと思いたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、うち大人び給へるに、いと若ううつくしげにて、切に隠れ給へど、おのづから漏り見奉る。

母御息所も、影だにおぼえ給はぬを、『いとよう似給へり』と、典侍の聞こえけるを、若き御心地にいとあはれと思ひ聞こえ給ひて、常に参らまほしく、『なづさひ見奉らばや』とおぼえ給ふ。主上も限りなき御思ひどちにて、『な疎み給ひそ。あやしくよそへ聞こえつべき心地なむする。なめしと思さで、らうたくし給へ。つらつき、まみなどは、いとよう似たりしゆゑ、かよひて見え給ふも、似げなからずなむ』など聞こえつけ給へれば、幼心地にも、はかなき花紅葉につけても心ざしを見え奉る。こよなう心寄せ聞こえ給へれば、弘徽殿の女御、またこの宮とも御仲そばそばしきゆゑ、うち添へて、もとよりの憎さも立ち出でて、ものしと思したり。

世にたぐひなしと見奉り給ひ、名高うおはする宮の御容貌にも、なほ匂はしさはたとへむ方なく、うつくしげなるを、世の人、『光る君』と聞こゆ。藤壺ならび給ひて、御おぼえもとりどりなれば、『かかやく日の宮』と聞こゆ。

[現代語訳]

源氏の君は、帝のお側をお離れにならないので、誰よりも頻繁にお渡りあそばす藤壺に対しては、若君も恥ずかしがってばかりもいられない。どのお妃でも、自分が人より劣っていると思っていらっしゃるような人はおらず、それぞれにとても美しく素晴らしいが、お年を召している方も多かった。その中で、とても若くて可愛らしい様子で、恥ずかしがってお姿をお隠しになっているが、自然と若君の目にも入ってくる。

母の御息所(桐壺の更衣)は、顔かたちすら覚えていらっしゃらないが、『母君にとてもよく似ていらっしゃる』と典侍が申し上げていたのを、幼心にとても慕わしい方だとお思いになるようになり、いつも藤壺のお側に参りたくなり、『親しくお姿を拝見したい』と思われなさる。

帝も、御子と藤壺はこの上なく可愛がっているお二人なので、『疎まずに愛しておやりなさい。不思議と若君の母上になぞらえて見てもよいような気持ちさえする。失礼だとお思いにならずに、慈しんで上げなさい。顔だちや目もとなど、非常によく似ているので、母君のように見えてしまうのも、母子として似つかわしくなくはない』などと帝がおとりなしになるので、子供心にも花や紅葉の美しい枝を、まずこの宮へ差し上げたいと思うようになり、自分の好意を受けて頂きたいと思うようになった。弘徽殿の女御は藤壼の宮に嫉妬の念を抱いていて仲が良くなかったので、藤壺に好意を寄せる源氏の君に、忘れていたはずの桐壺への憎しみを持つようになり不愉快に感じるようになった。

女御たちが世の中に類のないお方だと拝見していて、美しいと評判の高い宮の容貌に対しても、源氏の君の光り輝く美しさは比較できないほどなので、世の中の人たちは『光る君』とお呼び申し上げるようになった。藤壺もお並びになっていて、帝の御寵愛がそれぞれに厚いので、対句のように『輝く日の宮』とお呼び申し上げている。

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[古文・原文]

この君の御童姿、いと変へまうく思せど、十二にて御元服し給ふ。居起ち思しいとなみて、限りある事に事を添えさせ給ふ。一年の春宮の御元服、南殿にてありし儀式、よそほしかりし御響きに落とさせ給はず。 所々の饗など、内蔵寮、穀倉院など、公事に仕うまつれる、おろそかなることもぞと、とりわき仰せ言ありて、清らを尽くして仕うまつれり。

おはします殿の東の廂、東向きに椅子立てて、冠者の御座、引入の大臣の御座、御前にあり。 申の時にて源氏参り給ふ。角髪結ひ給へるつらつき、顔のにほひ、さま変へ給はむこと惜しげなり。 大蔵卿、蔵人仕うまつる。いと清らなる御髪を削ぐほど、心苦しげなるを、主上は、『御息所の見ましかば』と、思し出づるに、堪へがたきを、心強く念じかへさせ給ふ。

かうぶりしたまひて、御休所にまかで給ひて、御衣奉り替へて、下りて拝し奉り給ふさまに、皆人涙落とし給ふ。帝はた、ましてえ忍びあへ給はず、思し紛るる折もありつる昔のこと、とりかへし悲しく思さる。いとかうきびはなるほどは、あげ劣りやと疑はしく思されつるを、あさましううつくしげさ添ひ給へり。引入の大臣の皇女腹にただ一人かしづきたまふ御女、春宮よりも御けしきあるを、思しわづらふことありける、この君に奉らむの御心なりけり。内裏にも、御けしき賜はらせ給へりければ、『さらば、この折の後見なかめるを、添ひ臥しにも』ともよほさせ給ひければ、さ思したり。

さぶらひにまかで給ひて、人びと大御酒など参るほど、親王たちの御座の末に源氏着き給へり。 大臣気色ばみ聞こえ給ふことあれど、もののつつましきほどにて、ともかくもあへしらひきこえ給はず。

御前より、内侍、宣旨うけたまはり伝へて、大臣参り給ふべき召しあれば、参り給ふ。御禄の物、主上の命婦取りて賜ふ。白き大袿に御衣一領、例のことなり。

御盃のついでに、『いときなき 初元結ひに 長き世を 契る心は 結びこめつや』

御心ばへありて、おどろかさせ給ふ。

『結びつる 心も深き 元結ひに 濃き紫の 色し褪せずは』

と奏して、長橋より下りて舞踏し給ふ。左馬寮の御馬、蔵人所の鷹据ゑて賜はり給ふ。御階のもとに親王たち上達部つらねて、禄ども品々に賜はり給ふ。

その日の御前の折櫃物、籠物など、右大弁なむ承りて仕うまつらせける。屯食、禄の唐櫃どもなど、ところせきまで、春宮の御元服の折にも数まされり。なかなか限りもなくいかめしうなむ。

[現代語訳]

この源氏の君の子ども姿を、帝はいつまでも変えたくないとお思いだったが、十二歳で御元服を迎えることになった。帝が御自身でお世話を焼かれることとなり、作法どおりの元服式の上に、更にできるだけのことを加えて行った。昨年の東宮(皇太子)の御元服は、儀式が紫宸殿で執り行われて、威厳があって立派だったという世の評判を受けることになったが、源氏の君の元服の儀式もそれに引けを取らない。各所での饗宴にも、内蔵寮や穀倉院などが規定どおりに料理を作って奉仕するのでは、十分ではない部分があるかもしれないと思い、特別の勅命を出して、華麗で素晴らしい饗宴に仕上げられた。

清涼殿の東廂の間に、東向きに椅子を立て、元服なさる源氏の君のお席と加冠する大臣のお席とが、御前に設けられている。儀式は申の時に始められ、その時刻に源氏の君が参上なさる。角髪に結っていらっしゃる顔つき、童顔の色つやの良さは、髪形をお変えになるのが惜しいと思わせられる。大蔵卿が髪を整える理髪役としてお勤めをする。非常に美しい御髪を削ぐ時に、いたいたしそうなご様子を見て、帝は『亡き母の御息所が見たならば如何に喜ぶであろうか』と、お思い出しになり、涙が抑えがたい様子で、ありし日を思い起こしながら黙ってお堪えになっておられる。

元服の加冠が終わって、御休息所にお下がりになり、ご装束をお召し替えされて、東庭に下りて拝謁なさるご様子に、一同は涙を落としている。帝は帝で、誰にもまして感動に堪えることができない様子で、悲しみが紛れることがあった源氏の君の子ども時代の一時の思い出を、思い出して悲しみに襲われておられるようだ。このように幼い年代では、髪上げをすると見劣りしてしまうのではないかと御心配なさっていたが、驚くほどの可愛らしさと新たな品格が加わって見えた。

加冠役の大臣には、妻の内親王との間に設けた子で、大切に育てていらっしゃる姫君がいた。東宮からもご所望があったのだが、その時に躊躇されていたのは、この源氏の君のほうに差し上げようという心積もりがあったからである。帝のお気持ちを大臣が打診してみたところ、『それならば、元服後に後見する人もいないことなので、その添い臥しにでも娘を嫁入りさせてはどうかと』と勧めて下さったので、そのように考えていた。

ご休息所へと退出されて、出席者たちが御酒などをお召し上がりになる時に、親王方のお席の末席に源氏はお座りになられた。大臣がそれとなく娘について仄めかして申し上げるのだが、まだ気恥ずかしい年ごろなので、どのようにするかをはっきりとはお答えになられない。

御前から内侍が宣旨を承ってやって来て、大臣に御前に参られるようにと伝えたので、大臣は帝の御前へと参上なさる。御禄の品物を、帝のお付きの命婦たちが取りついで賜わっている。白い大袿に御衣装一領、前例のとおりの品物である。

酒のお盃を賜る時に、帝が『幼子の元服の折、末永い夫婦の仲を、そなたの姫との間で結ぶという約束をなされたのだろうか』という歌をお詠みになられた。

帝がそこまでのお心づかいを臣下に示されたことに対して、大臣ははっと驚かれた。

『元服の折に約束した心も、深い絆へとなっていくはずです。その濃い紫の色さえ変わらなければ』

と返歌を奏上した大臣は、清涼殿の階段を降りてから拝礼をした。

左馬寮の御馬、蔵人所の鷹をその時に帝より賜った。その後、階段の下に並んだ親王たちや上達部たちが、それぞれの身分に応じた品物・禄を賜った。この日の饗宴の席での折り詰めのお料理、籠詰めの菓子などは、みんな右大弁が帝の御命令によって作った物だった。一般の官吏にも賜った弁当の数、下賜された絹を入れる箱が多かったというのは、色々な儀礼上の制約がある東宮の御元服の式と比べても盛大であった。

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