『平家物語』の原文・現代語訳3:五節には、『白薄様・こぜんじの紙・巻あげの筆・巴かいたる筆の軸』~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『五節には、「白薄様・こぜんじの紙・巻あげの筆・巴かいたる筆の軸」~』の部分の原文・意訳を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

殿上の闇討2

五節には、『白薄様・こぜんじの紙・巻あげの筆・巴かいたる筆の軸』なんど云ふ、さまざまかやうに面白き事をのみこそ歌ひ舞はるるに、中頃、太宰権師季仲(だざいのごんのそつすえなか)の卿と云ふ人ありけり。余りに色の黒かりければ、時の人『黒師(こくそつ)』とぞ申しける。この人未だ蔵人頭(くろうどのとう)なりし時、御前の召に舞はれけるに、人々拍子を替へて、『あな黒々、黒き頭かな、いかなる人の漆塗りけん』とぞはやされける。

又花山(かざん)の院の前太政大臣忠雅(ただまさ)公、未だ十歳なりし時、父中納言忠宗(ただむね)の卿におくれ給ひて、孤子(みなしご)にておはしけるを、故中の御門の藤中納言(とうのちゅうなごん)家成卿(かせいのきょう)、その時は未だ播磨守にておはしけるが、聟(むこ)に取つてはなやかにもてなされしかば、これも五節には、『播磨米は、木賊草(とくさ)か椋の葉か。人の綺羅を磨くは』とぞはやされける。『上古には、かやうの事ども多かりしかども、事出でこず。末代いかがあらんずらん、おぼつかなし』とぞ人々申しあはれける。

案の如く、五節はてにしかば、院中の公卿殿上人、一同に訴へ申されけるは、『それ雄剣を帯して、公宴(くえん)に列し、兵仗(ひょうじょう)を賜つて宮中を出入するは、皆これ格式の体を守る、綸命(りんめい)由ある先規(せんぎ)なり。しかるを忠盛の朝臣、或は年来の郎従と号して、布衣の兵(ほういのつわもの)を殿上の小庭に召しおき、或いは腰の刀を横たへさいて節会の座に列る(つらなる)。両条、希代未だ聞かざる狼藉なり。事すでに重畳せり。罪科尤も逃れがたし。

早く殿上の御簡(みふだ)を削つて、解官停任(げかんちょうにん)行はるべきか』と、諸卿一同に訴へ申されければ、上皇、大きに驚かせ給ひて、忠盛を御前に召して御尋ねあり。陳じ申されけるは、『先ず郎従小庭に伺候のよし、全く覚悟仕らず(つかまつらず)。但し近日人々相巧まるる旨、子細あるかの間、年来の家人(けにん)、事を伝へ聞くかによつて、其の恥を助けんがために、忠盛には知らせずして、ひそかに参候の条、力及ばざる次第なり。若し咎(とが)あるべくば、かの身を召し進ずべきか。次に刀の事は、主殿司(とのもづかさ)に預け置き候ひ畢んぬ(そうろいおわんぬ)。これを召し出され、刀の実否(じっぴ)によつて、咎の左右行はるべきか』と申されたりければ、『此の儀尤もしかるべし』とて、急ぎかの刀を召出でて叡覧(えいらん)あるに、上は鞘巻の黒う塗つたりけるが、中は木刀に銀箔をぞ押いたりける。

『当座の恥辱を遁れんが為に、刀を帯する由あらはすといへども、後日の訴訟を存じて、木刀を帯しける用意の程こそ神妙なれ。弓箭(きゅうせん)に携はらん程の者の謀(はかりごと)には、最もかうこそあらまほしけれ。かねては又郎従小庭に伺候のこと、かつうは武士の郎等の習ひなり。忠盛が咎にはあらず』とて、却つて叡感に預つし(あずかつし)上は、あへて罪科の沙汰はなかりけり。

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[注釈・意訳]

五節の行事では、『白薄様の歌・紅染めの紙・巻き上げの筆・鞆絵を描いた筆の軸』などという色々な面白いことだけを歌い舞われているが、中頃の昔に、太宰権師季仲の卿という人がいた。余りに色が黒かったので、その時代の人は『黒師』と呼んでいた。この人物がまだ蔵人頭だった時、院に召し出されて舞っていたのだが、人々は拍子を替えて『あぁ、黒々としている。黒い頭だな。一体どんな人が漆を顔に塗っているのか』と囃し立てていた。

また花山院の時代の先代の太政大臣忠雅公がまだ10歳だった時、父の中納言忠宗卿に先立たれてしまい、孤児になってしまわれたが、故中の御門である藤中納言家成卿が、その時はまだ播磨守でおられたが、娘婿に取られて華やかにもてなしたのである。これも五節の行事では、『播磨の米は、とくさか椋の葉か、人の外見を磨いてくれるとは』と囃し立てられる。『上古の時代には、このような事例も多かったのだが、何事も起こらなかった。末代はどのようになるのだろうか、不安である』と人々は申し合わせている。

滞りなく五節の行事は終わることになったが、院の公卿・殿上人が一同に集まって院に訴え出てきた。『武者は大刀を帯びたままで公の宴に参加し、兵権を授けられて宮中に出入りしているが、これはみんな格式の体を守っており、院の命令がある故に特別に許されている先例である。それなのに、忠盛は長年連れ添っている郎従と号して、布衣を着た兵士を殿上の小庭に召し置いて、あるいは腰に差した刀を横たえて、節会の座に連なっている。この両方の事例は、今まで聞いたこともないような無礼狼藉(乱暴な振る舞い)ではないか。この事は既に何度も繰り返されている。この罪はもはや逃れがたい。早く殿上の木簡を削って、(無礼な忠盛の)官職を解任すべきではないか』と諸卿が一同に訴えでてきたので、上皇は大いに驚かれて、忠盛を召し出してご質問された。

忠盛が畏まって申し上げるには、『まず郎従が小庭に伺候していたことですが、全く私は知りませんでした。しかし、最近公卿の方々が平氏に対して謀略を巡らしているということを伝え聞き、何かあるかもしれないということで、長年連れ添っている家来が、主人が辱められる危険がないように助けようと、私(忠盛)には知らせないままで、密かに参内していたのです。私の力が及ばず申し訳ありません。もし罪があるというのであれば、その家来の身を差し上げるべきでしょうか。次に刀のことですが、主殿司のほうに刀は預けておきました。これを召し出されて刀の真偽を問うて、処罰をどうするか考えるべきでしょう』と言うので、『これはもっともな言い分である』ということで、急いでその刀を召し出してご覧になられたのだが、上は鞘巻を黒く塗ってあるが、中身は木刀に銀箔を押し付けてあるだけだった。

『当座の恥辱を逃れようとして、刀を差していたのだろうが、後日の訴えを予見して、真剣ではなく木刀を差す準備をしていたというのは実に神妙(あっぱれ)である。兵事に携わっている武者の謀略というのは、もっともこのような機転の利くものであってほしいものだ。また郎従が小庭に伺候した件についても、これは主人を守る役務を負う武士の郎党にとっては慣習のようなものである。忠盛の罪(過ち)ではない』とおっしゃって、上皇はかえって忠盛の振る舞いにご感心なされ、敢えて忠盛の罪科を問うようなことはなかった。

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