『平家物語』の原文・現代語訳7:我が身の栄花を極むるのみならず~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『我が身の栄花を極むるのみならず~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

我身の栄花の事

我が身の栄花を極むるのみならず、一門共に繁昌して、嫡子重盛(しげもり)、内大臣の左大将、次男宗盛(むねもり)、中納言の右大将、三男知盛(とももり)、三位の中将、嫡孫維盛(これもり)、四位の少将、すべて一門の公卿十六人、殿上人三十余人、諸国の受領・衛府・諸司、都合六十余人なり。世には又人なくぞ見えられける。昔奈良の帝の御時、神亀五年、朝家(ちょうか)に中衛(ちゅうえ)の大将を始め置かる。大同四年に中衛を近衛に改められしより以来(このかた)、兄弟左右に相並ぶ事、わづかに三、四か度なり。

文徳天皇の御時は、左に良房(よしふさ)右大臣の左大将、右に良相(よしあう)大納言の右大将、これは閑院の左大臣冬嗣(ふゆつぐ)の御子なり。朱雀院の御宇(ぎょう)には、左に実頼(さねより)小野宮殿、右に師輔(もろすけ)九条殿、貞信(ていしん)公の御子なり。後冷泉院の御時は、左に教通(のりみち)大二条殿、右に頼宗(よりむね)堀川殿、御堂の関白の御子なり。二条の院の御宇には、左に基房松殿、右に兼実(かねざね)月輪殿、法性寺殿の御子なり。これ皆摂禄(しょうろく)の臣の御子息。凡人に取っては、その例なし、殿上の交わりをだに嫌はれし人の子孫にて、禁色・雑包をゆり、綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)を身にまとひ、大臣の大将になりて、兄弟左右に相並ぶ事、末代とは云ひながら、不思議なりし事どもなり。

その外御女(おんむすめ)八人おはしき。皆とりどりに幸ひ給へり。一人は桜町の中納言成範(しげのり)の卿の北の方にておはすべかりしが、八歳の年御約束ばかりにて、平治の乱以後、ひきちがへられて、花山の院の左大臣殿の御台盤所(みだいばんどころ)にならせ給ひて、公達あまたましましけり。そもそもこの成範の卿を桜町の中納言と申しけることは、すぐれて心すき給へる人にて、常は吉野山を恋ひつつ、町に桜を植えならべ、その内に屋を建てて住み給ひしかば、来る年の春ごとに、見る人桜町とぞ申しける。

桜は咲いて、七か日に散るを、名残を惜しみ、天照大神に祈り申されければにや、三七日まで名残ありけり。君も賢王にてましませば、神も神徳をかがやかし、花も心ありければ、二十日の齢(よわい)を保ちけり。

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[注釈・意訳]

平清盛は我が身の栄花を極めただけではなく、一門一族と共に繁昌して、嫡子の重盛(しげもり)は内大臣の左大将、次男宗盛(むねもり)は中納言の右大将、三男知盛(とももり)は三位の中将、嫡孫維盛(これもり)は四位の少将となった。平氏一門の公卿は十六人、殿上人は三十余人にも上り、諸国の受領・衛府・諸司は合わせると六十余人となる。世には平氏以外に人材がないようでもある。昔、奈良の帝(聖武天皇)の時代の神亀五年、朝家(天皇の一族)の護衛として中衛(ちゅうえ)の大将が初めて置かれた。大同四年に、中衛が近衛という官職に改められてからは、兄弟が左右の近衛大将として並ぶ事は、わづかに三、四回しかないのである。

文徳天皇の時代は、左に良房が右大臣で左大将、右に良相が大納言で右大将がいて、共に閑院(邸宅名)の左大臣だった藤原冬嗣の御子である。朱雀天皇の時代には、左大将に実頼小野宮殿、右大将に師資がいて、共に貞信公の御子である。後冷泉院の時代には、左大将に教通大二条殿、右大将に頼宗堀河殿がいて、共に御堂の関白(藤原道長)の御子である。二条院の時代には、左大将に基房松殿、右大将には兼実月輪殿、共に法性寺殿(藤原忠通)の御子である。これらの人たちは皆、摂禄の臣(公家の高位高官)の御子息であり、凡人の家柄で左右の大将を占めるというのは前例が無かった。殿上人としての交わりさえも嫌われた凡人の家(武家)の子孫が、華やかな綾羅錦繍を身に纏って、左右の大将として兄弟で相並ぶということは、末代とはいえ不思議なことである。

清盛には八人の娘がいて、その八人もそれぞれ幸せな人生を歩んだ。一人は桜町中納言と呼ばれた藤原成範の妻になる予定だったが、八歳の時の平治の乱によってその約束が破られてしまい、結局は花山院の左大臣・藤原兼雅の妻となり、公達となる子を多く産んだ。そもそも、この成範卿のことを桜町の中納言と呼んだのは、とても心の清らかな方で、いつもは吉野の山に恋い焦がれており、町に桜を植えて、そこに家を建ててお住みになられたからで、毎年春が来るたびに人々がこの花を見て桜町と言った。

桜は咲いて七日ほどで散るが、名残を惜しんで天照大神にお祈りをしたら、三十七日も咲いたことがあった。主君が賢王でいらっしゃるので、神も神徳を働かせて、花も心があればこそ二十日の命を保つことが出来たのである。

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