『平家物語』の原文・現代語訳15:『先ず異朝の先蹤をとぶらふに~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『先ず異朝の先蹤をとぶらふに~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

二代の后の事(続き)

『先ず異朝の先蹤(せんしょう)をとぶらふに、震旦(しんたん)の則天皇后は、唐の太宗の后、高宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後、高宗の后に立ち給ふ事あり。それは異朝の先規たる上、別段の事なり。しかれども我が朝には、神武天皇より以来(このかた)、人皇七十余代に至るまで、未だ二代の后に立たせ給ふ例を聞かず』と、諸卿一同に訴へ申されたりければ、上皇も然るべからざる由、こしらへ申させ給へども、主上仰せなりけるは、

『天子に父母なし。われ十善の戒功によつて、今万乗(ばんじょう)の実位を保つ。これ程の事、などか叡慮に任せざるべき』とて、やがて御入内の日、宣下せられける上は、上皇も力及ばせ給はず。

大宮かくと聞し召されけるより、御涙に沈ませおはします。先帝におくれ参らせにし久寿(きゅうじゅ)の秋の始め、同じ野原の露とも消え、家をも出で、世をも遁れ(のがれ)たりせば、今かかる憂き耳をば聞かざらましとぞ、御歎きありける。父の大臣こしらへ申させ給ひけるは、『世に随はざるを以て狂人とすと見えたり。己に詔命を下さる。子細を申すに所なし。ただ速かに参らせ給ふべきなり。若し皇子御誕生ありて、君も国母と云はれ、愚老も外祖と仰がるべき瑞相(ずいそう)にてもや候ふらん。これひとへに、愚老を助けさせまします御孝行の御至りなるべし』と、様々にこしらへ申させ給へども、御返事もなかりけり。

大宮其の頃何となき御手習の次(ついで)に

うき節に 沈みもやらで 河竹の 世にためしなき 名をや流さん

世には如何にして洩れけるやらん、あはれにやさしき例にぞ人々申し合はれける。

既に御入内の日にもなりしかば、父の大臣、供奉(ぐぶ)の上達部(かんだちめ)、出車の儀式など、心ことに出し立て参らつせ給ひけり。大宮、物憂き御出立(おんいでたち)なれば、とみにも奉らず。遥に夜更け、さ夜も半(なかば)になりて後、御車に助け乗せられさせ給ひけり。御入内の後は、麗景殿(れいけいでん)にぞましましける。されば、ひたすら、朝政を勤め申させ給ふ御様なり。

かの紫宸殿の皇居には、賢聖の障子を立てられたり。伊尹(いいん)・第伍倫(ていごりん)・虞世南(ぐせいなん)・太公望・角里先制(ろくりせんせい)・李勣(りせき)・司馬。手長・足長。馬形の障子。鬼の間。李将軍が姿をさながら写せる障子もあり。尾張守小野道風(おののどうふう)が七回賢聖の障子と書けるも理とぞ見えし。かの清涼殿の画図の御障子には、昔金岡が書きたりし遠山の有明の月もありとかや。故院の未だ幼生にてましませしそのかみ、何となき御手まさぐりのついでに、かきくもらかさせ給ひたりしが、ありしながらに少しも違はせ給はぬを御覧じて、先帝の昔もや御恋しう思し召されけん、

思ひきや 憂き身ながらに めぐり来て 同じ雲ゐの 月を見んとは

その間の御なからひ、云ひ知らずあはれにやさしき御事なり。

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[現代語訳・注釈]

『まず、中国の異朝の前例を調べてみますと、震旦(中国)の則天皇后は唐の太宗皇帝の后であり、高宗皇帝の継母です。太宗が崩御された後に、高宗の后になられたという事例はあります。しかし、それは本朝(日本)ではない異朝(中国)の先例であり、別の問題だと思われます。更に、我が朝廷においては、神武天皇より主上まで七十余代も続いていますが、いまだ一人の女性が二代の后になられたという前例は聞いたことがありません。』と、諸卿は揃って訴え、後白河上皇も同じように説得された。だが二条天皇がおっしゃるには、

『天子に父母はいない。自分は十善の功徳を積んで、今の万乗の位を保っているのである。これくらいの女の事などは、私の叡慮のままにさせよ。』と言う。すぐに入内の日を決められて、宣下されてしまわれたので、上皇も説得することができなかった。

大宮はこの事を聞いて、涙に沈んでしまわれた。前の帝に遅れ奉った久寿(近衛天皇は久寿二年七月二十三日に十七歳で崩御した)の秋の初め、私も同じように野原の露となり消えるか、出家して世を逃れておれば、今になってこのような憂き目を見ずに済んだのにと、嘆き悲しんでおられる。父の右大臣がなだめながら申されたのは、『世に従わぬことをもって狂人となすという故事もあるのだ。もう既に勅命は下ってしまった。今更、何を申しても仕方ない。一刻も早く、参内したほうが良い。もし帝との間に皇子が誕生したら、お前は国母になって、私も外祖父として仰がれることになる。それに向けた瑞相かもしれないぞ。年老いた父を助ける親孝行とでも思えば良いではないか。』などとあれこれ慰めて取りなそうとしたが、御返事は無かった。

大宮は何気ない手習いのついでに、一首を書き留めた。

うき節に 沈みもやらで 河竹の 世にためしなき 名をや流さん(先帝が崩御した悲しみの時に、私は死ぬこともできずにいて、世の中に前例のない二代の后として名前を残してしまうことになるのでしょうか。)

世の中にどうしてこの気持ちが漏れてしまったのか、この歌を聞いた人々は何と哀れなことだ、何と心根の優しい方なのかと言い合ったのである。

早くも入内の日になり、父の大臣、供奉する公卿、出車の儀式など、特に念を入れて準備をした。大宮はいま一つ気が進まないご様子で、なかなか車に乗ろうとはしない。夜が更けてからようやく人々に助けられながら、お車に乗られた。入内の後には麗景殿にお住まいになり、天皇に対して、朝の政事を務めるようにと言われているようなご様子である

紫宸殿の皇居には、中国の賢聖を描いた障子が取り付けられている。伊尹、第伍倫、虞世南、太公望、角里先生、李勣、司馬。手長、足長。馬形の障子、鬼の間。季将軍の姿を写したような障子もあった。尾張守の小野道風が『聖賢の障子』という文字を七回も書き直したと伝えられているのも最もな話である。清涼殿の絵が描かれた障子は、昔、金岡が宇多天皇の命を受けて遠山の有明の月を描いたものである。故近衛院がまだ幼少であられた頃に、悪戯をしてその月に墨を塗って曇らせてしまわれたが、そのままの形で残っているのをご覧になり、先帝のおられた昔を恋しく思われた。

思ひきや 憂き身ながらに めぐり来て 同じ雲ゐの 月を見んとは(二代の后にさせられた悲しい身の上ではありますが、巡り巡って子ども時代のあなたが書いた墨の雲がかかった月を見ていると、とても懐かしい思いが致します。)

近衛院と大宮との関係であれば最もなことだが、言いようもない大宮の心根の優しさが込められている。

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