『平家物語』の原文・現代語訳22:これによつて、主上御元服の御定め~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『これによつて、主上御元服の御定め~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

鹿の谷の事

これによつて、主上御元服の御定め、その日は延びさせ給ひて、同じき二十五日、院の殿上にてぞ御元服の御定めはありける。摂政殿、さても渡らせ給ふべきならねば、同じき十一月九日の日兼宣旨(かねせんじ)を蒙らせ給ひて、同じき十四日太政大臣にあがらせ給ふ。やがて同じき十七日、慶申(よろこびもうし)のありしかども、世の中はなほにがにがしうぞ見えし。

さる程に今年も暮れぬ。嘉応も三年(みとせ)になりにけり。正月五日の日、主上御元服あつて、同じき十三日朝勤(ちょうきん)の行幸ありけり。法皇・女院待ち受け参らせ給ひて、初冠(うひかうぶり)の御粧(おんよそほひ)、いかばかりらうたく思し召されけん。入道相国の御娘、女御に参らせ給ふ。御年十五歳。法皇御猶子(ゆうし)の儀なり。

妙音院殿(みょうおんいんどの)、その頃は未だ内大臣の左大将にてましましけるが、大将を辞し申させ給ふ事ありけり。時に徳大寺の大納言実定の卿、その仁に相当り給ふ。又花山の院の中納言兼雅(かねまさ)の卿も所望あり。その外故中の御門の藤中納言家成(かせい)の卿の三男、新大納言成親(なりちか)の卿もひらに申さる。この大納言は院の御気色よかりければ、様々の祈を始めらる。

先ず八幡に百人の僧を籠めて、真読の大般若を、七日読ませられたりける最中に、高良(こうら)の大明神の御前なる橘の木へ、男山の方より山鳩三つ飛び来つて、くひあひてぞ死にける。鳩は八幡大菩薩の第一の使者なり。宮寺にかかる不思議なしとて、時の検校(けんぎょう)匡清(きょうせい)法印、この由内裏へ奏聞(そうもん)したりければ、『これ唯事にあらず、御占(みうら)あるべし』とて、神祇官にして御占あり。『重き御慎み』と占ひ申す。『但し、これは君の御慎にはあらず。臣下の慎』とぞ申しける。

それに大納言恐れをも致されず、昼は人目の繁ければ、よなよな歩行にて、中の御門烏丸の宿所より、賀茂の上の社(やしろ)へ、七夜続けて参られけり。七夜に満ずる夜、宿所に下向して、苦しさに少し目睡み(まどろみ)たりける夢に、賀茂の上の社へ参りたると思しくて、御貴殿の御戸おし開き、ゆゆしう気高げなる御声にて、

桜花賀茂の川風うらむなよ散るをばえこそ留めざりけれ

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[現代語訳・注釈]

殿下乗合事件によって、高倉天皇が御元服されるご評定が延期されることになり、同月25日に、院の殿上でご評定が行われた。摂政殿はそのまま現職ではいられないので、同年11月9日に先の人事の予定である宣旨を受けて、同月14日に太政大臣に就任されることになった。そして同月17日に、昇進のお慶びを申し上げたのだが、世の中はそれでも納得がいかず苦々しい思いをしているように見えた。

そうこうしていると今年も暮れてしまった。嘉応も三年になった。正月5日の日に、高倉天皇の御元服があって、同月13日に上皇のおられる院の御所に行幸された。後白河法皇・建春門院はお待ちになられていて、天皇が初冠された装いを見て、どれほどか可愛いとお思いになられたことであろう。入道相国(平清盛)の娘(徳子)が、女御として参内された。娘の年は15歳。後白河法皇の養女という扱いとなった。

妙音院殿(藤原師長)は、その頃はまだ内大臣の左大将でいらっしゃったが、大将を辞任なされるということがあった。その時、徳大寺大納言の実定卿が、その後任を務めると言われていた。また、花山院中納言の兼雅卿も大将の地位を所望していた。その他、故中御門の藤中納言家成卿の三男で、新大納言である藤原成親卿もその大将になりたいと申し上げている。成親卿は、後白河法皇のお気に入りであったので、色々な祈祷を始められた。

まず石清水八幡宮に百人の僧侶を籠らせて、大般若波羅蜜多経600巻のすべてを七日間にわたって読経させている最中に、高良大明神の前にある橘の木に、男山の方角から三羽の山鳩が飛んできて食い合って死んでしまった。鳩は八幡大菩薩の第一の使者とされている。宮寺でこのような不思議なことはないと言って、その時の検校であった匡清法印は、この問題を内裏へ報告したが、『これはただ事ではない、御占をしなければならない』ということで、神祇官で御占が行われた。『重く言動の慎みをしなければならない』という占いの結果が出た。『ただしこれは主君の慎みではない。臣下の慎みである。』と申し上げた。

これに新大納言は恐れもせず、昼は人目が多いので夜な夜な徒歩で、中御門烏丸の邸宅から上賀茂神社へ七夜続けて参拝された。七夜に達しようとする夜、邸宅に帰って疲れでうとうとしていると、夢の中で上賀茂神社に参拝しているように思われる様子で、御宝殿の扉を押し開くと恐ろしいほどに気高い声で、

桜花よ、賀茂川の風を恨むなよ。花が散るのを留めることはできない。

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