『平家物語』の原文・現代語訳24:平治にも、越後の中将とて、信頼の卿に同心の間~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『平治にも、越後の中将とて、信頼の卿に同心の間~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

鹿の谷の事(続き)

平治にも、越後の中将とて、信頼の卿に同心の間、その時既に誅せらるべかりしを、小松殿の様々に申して、頸をつぎ給へり。しかるに、その恩を忘れて、外人もなき所に、兵具を調へ(ととのえ)、軍兵を語らひおき、朝夕はただ軍(いくさ)合戦のいとなみの外は、また他事なしとぞ見えたりける。

東山鹿の谷(ししのたに)といふ所は、後は三井寺に続いて、ゆゆしき城郭にてぞありける。それに俊寛(しゅんかん)僧都(そうず)の山荘あり。かれに常は寄合ひ寄合ひ、平家亡すべき謀(はかりごと)をぞ運し(めぐらし)ける。或夜法皇も御幸(ごこう)なる。故少納言入道信西の子息、浄憲法印も御供仕らる(つかまつらる)。

その夜の酒宴に、この由を仰せ合せられたりければ、法印、『あなあさまし。人あまた承り候ひぬ。ただいま漏れ聞えて、天下の御大事に及び候ひなんず』と申されければ、大納言、気色変つて、さつと立たれけるが、御前に立てられたりける瓶子(へいじ)を、狩衣の袖にかけて引き倒されたりけるを、法皇叡覧(えいらん)あつて、『あれはいかに』と仰せければ、大納言たち帰つて、『平氏倒れ候ひぬ』とぞ申されける。法皇もゑつぼに入らせおはしまし、『者ども、参つて猿楽仕れ(つこうまつれ)』と仰せければ、平判官(へいほうがん)康頼(やすより)つと参つて、『ああ余りに平氏の多う候ふに、もて酔ひて候ふ』と申す。

俊寛僧都、『さてそれをば如何仕るべきやらん』。西光法師、『ただ、頸を取るにはしかじ』とて、瓶子の首を取つてぞ入りにける。法印あまりのあさましさに、つやつや物も申されず。返す返すも恐ろしかりし事どもなり。さて与力の輩誰々ぞ。近江の中将入道蓮浄俗名成正・法勝寺の執行俊寛僧都・山城守基兼・式部大輔雅綱・平判官康頼・宗判官信房・新平判官資行、武士には多田蔵人行綱を始めとして、北面の者ども多く与力してげり。

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[現代語訳・注釈]

平治の乱でも(藤原成親卿は)、越後の中将として藤原信頼卿に味方したため、既に誅殺されるはずだったのだが、小松殿の取りなしがあって何とか首がつながった。そうであるのに、その旧恩を忘れて人のいない場所で兵具を調達し、軍兵を招集して、朝夕にわたって戦の準備をしてばかりで、それ以外のことは何もしないほどだった。

東山の麓にある鹿の谷という所は、後ろは三井寺へと続いていて、守りが堅固な城郭でもあった。ここに俊寛僧都の山荘があった。ここでいつも寄り合いを開いて、平家を滅亡させようとする謀略を話し合っていた。ある日の夜に、法皇も行幸された。故少納言入道の信西の子息である浄憲法印がお供に従っていた。

その夜の酒宴で法皇が浄憲法印に平家に対するはかりごとについておっしゃったところ、『あぁ、驚きました。大勢の人が聞いております。すぐに漏れてしまって天下の大事になってしまうでしょう。』とうろたえて申したので、大納言は顔色が変わって急に立ち上がってしまい、御前にあった瓶子を狩衣の袖に引っ掛けて倒してしまった。その様子を法皇がご覧になっていて、『これはどういうことか。』とおっしゃったので、大納言は立ち返って、『平氏が倒れました。』と申し上げた。法皇はそのことを面白く思われて笑い、『者共を集めて猿楽を踊れ。』とおっしゃったので、平判官康頼が参って、『あぁ、余りに平氏が多いので酔ってしまいました。』と申し上げた。

俊寛僧都は、『さて、それをどうしましょうか。』と言った。西光法師は、『首を取るに勝ることはない。』と言って、瓶子の首を取って座に入ってきた。浄憲法印は余りに驚いてしまって(恐ろしくなって)、物を申し上げることもできなかった。返す返すも恐ろしい謀略であった。さて、その平氏打倒の計略に味方したものは誰か。近江の中将入道蓮浄俗名成正・法勝寺の執行俊寛僧都・山城守基兼・式部大輔雅綱・平判官康頼・宗判官信房・新平判官資行、武士の多田蔵人行綱を始めとして、北面の武士の多くが参加していたのであった。

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