『平家物語』の原文・現代語訳25:そもそもこの法勝寺の執行俊寛僧都~

スポンサーリンク

13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『そもそもこの法勝寺の執行俊寛僧都~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

楽天AD

[古文・原文]

鵜川合戦(うかわかっせん)の事

そもそもこの法勝寺の執行俊寛僧都(しぎょう・しゅんかんそうず)と申すは、京極の源大納言雅俊の卿の孫、木寺の法印寛雅には子なりけり。祖父大納言は、さして弓矢取る家にはあらねども、あまりに腹あしき人にて、三条の坊門京極の宿所の前をば、人をも易く通されず。常は中門にたたずみ、歯をくひしばり、怒ってこそおはしけれ。かかる恐ろしき人の孫なればにや、この俊寛も、僧なれども、心猛く傲れる人にて、よしなき謀反にも与して(くみして)げるにこそ。

新大納言成親の卿、多田蔵人行綱を召して、『今度御辺をば一方の大将に頼むなり。この事しおほせつるものならば、国をも庄をも所望によるべし。まづ弓袋(ゆぶくろ)の料に』とて、白布五十端贈られたり。

安元三年三月十五日の日、妙音院殿、太政大臣に転じ給へり。替りに、小松殿、源大納言定房の卿を越えて、内大臣になり給ふ。やがて大饗行わる。大臣の大将めでたかりき。尊者には大炊(おおい)の御門の右大臣経宗公とぞ聞えし。一の上こそ先途(せんど)なれども、父宇治の悪左府(あくさふ)の御例その恐れあり。

北面は上古にはなかりけり。白河の院の御時、始め置かれてより以来、衛府ども数多候ひけり。為俊・盛重、童より今犬丸・千手丸とて、これらは、さうなき切者にてぞありける。鳥羽の院の御時も、季頼(すえより)・季教(すえのり)父子、共に、朝家に召使はれてありしが、常は伝奏する折もあり、なんど聞えしかども、これ等は身の程をふるまうてこそありしか。この時の北面の輩(ともがら)は、事の外に過分にて、公卿・殿上人をも事ともせず、下北面より上北面にあがり、上北面より、殿上の交(まじわり)を許さるる者も多かりけり。

かくのみ行わるる間、驕れる心ども付きて、よしなき謀反にも与してげるにこそ。中にも、故少納言入道信西(しんぜい)のもとに召使はれける師光(もろみつ)・成景(なりかげ)といふ者あり。師光は阿波国の在聴(ざいちょう)、成景は京の者、宿根(しゅくこん)賤しき下臈(げろう)なり。健児(こんでい)童(わらわ)もしは恪勤者(かくごしゃ)などにてもやありけん。さかさかしかりしによつて、常は院へも召使はれけるが、師光は左衛門尉(さえもんのじょう)、成景は右衛門尉とて、二人一度に靱負尉(ゆきえのじょう)になりぬ。一年信西事に逢ひし時、二人共に出家して、左衛門入道西光(さいこう)、右衛門入道西景(さいけい)とて、これらは出家の後も、院の御倉預(みくらあずかり)にてぞ候ひける。

スポンサーリンク
楽天AD

[現代語訳・注釈]

そもそもこの法勝寺の執行である俊寛僧都と申す人物は、京極の源大納言雅俊卿の孫にあたる人で、父親は法勝寺の法印寛雅という者だった。祖父の大納言雅俊は特に弓矢を扱う武門の家ではないが、非常に短気な人で、三条坊門京極の屋敷前を人が通るのを嫌って、いつも門の前に立って歯を食いしばり、怒った表情で睨み付けていた。このような恐ろしい人物の孫である俊寛も、僧侶の身分であるにも関わらず、気持ちが激昂しやすくて驕り高ぶる人物なので、好ましくない謀反の計画にも加担したのだろう。

新大納言の成親卿は多田蔵人行綱を呼んで、『この度はあなたに一方の大将をお願いしたい。この計画が成功したら、国でも荘園でも思いのままに差し上げよう。まずは弓袋の材料にでもせよ。』と白布五十反を贈ったのである。

安元三年三月五日、妙音院殿(藤原師長殿)が太政大臣に昇進なされた。その替わりに、小松殿(平重盛)が現大納言である定房卿を越えて内大臣へと就任された。やがてお祝いの宴会が開かれた。小松殿は大臣でありながら大将も兼任するというめでたさだった。主賓は、大炊御門の右大臣経宗公だと言われていた。藤原師長にとっては左大臣が最高位の官職だったが、父の宇治・悪左大臣(藤原頼長)が、左大臣である時に保元の乱で滅ぼされたという不吉な先例があったので、左大臣を避けていきなり太政大臣に就いたのである。

北面の武士という役職などは、昔は無かったのだ。白河院の時に初めて設置されて以来、六衛府の猛者たちが大勢、北面の武士として仕えるようになった。為俊・盛重は子供時代から今犬丸・千手丸と呼ばれて、彼らは並ぶ者がない切れ者として、院に仕えていた。鳥羽院の時には、季教・季頼が父子一緒に朝廷で召し使われて、普段は伝奏のお役目を取り次ぐこともあったが、これらの人でも職務上の立場・権限をわきまえてはいた。

最近の北面の武士といったら自らの立場・権限もわきまえず、公卿・殿上人を蔑ろにして軽視したり、六位の下北面から昇殿を許される上北面にまで出世をして、また上北面の中には殿上人との交際さえ許される者が、数多く現われてきたのである。このような越権が行われている内に、驕り高ぶる心が生まれてこのような謀反の計画に、参加することになったのだろう。その中には、故少納言入道信西の下に召し使われていた師光・成景という者がいた。

師光は阿波の国の地方官であり、成景は京の者であるが、身分の低い卑しい出自の者に過ぎなかった。中間とか足軽とか、または僧の身辺の雑役をしていた者だったのだろう。頭が切れて機転の効く人材ということで。普段は院に召し使われていたのだが、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉と二人一度に天皇の側近くに仕える靫負尉(ゆきえのじょう)へと昇進した。先年、平治の乱で信西が成敗された時、二人一緒に出家して、左衛門入道西光、右衛門入道西敬として出家の後も、院の衣食住の管理をする御倉預のお役目を務めた。

スポンサーリンク
楽天AD
Copyright(C) 2012- Es Discovery All Rights Reserved