『平家物語』の原文・現代語訳29:先づ顕れての御立願には~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『先づ顕れての御立願には~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

願立の事(続き)

先づ顕れての御立願(ごりゅうがん)には、芝田楽百番、百番の一つ物、競馬・流鏑馬(やぶさめ)・相撲各百番、百座の仁王講、百座の薬師講、一チャク手半の薬師百体、等身の薬師一体、並に釈迦、阿弥陀の像、各造立供養せられけり。又御心中に三つの御立願あり。御心の中の御事なれば、人これをば如何でか知り奉るべきに、それに何よりも又不思議なりける事には、七夜に満ずる夜、八王子の御社(みやしろ)に、いくらもありける参人(まいりびと)どもの中に、陸奥国より遥々と上つたりける童神子(わらわみこ)、夜半ばかりに俄(にわか)に絶え入りけり。遥にかき出して祈りければ、やがて立つて舞ひかなづ。人奇特の思をなしてこれを見る。

半時ばかり舞うて後、山王おりさせ給ひて様々の御託宣こそ恐しけれ。『衆生等たしかに承れ。大殿の北政所、今日七日我が御前に籠らせ給ひたり。御立願三つあり。先づ一つには、今度殿下の寿命を助けさせおはしませ。さも候はば、大宮の下殿に候ふ諸(もろもろ)の片端人(かたわうど)に交わつて、一千日が間、朝夕宮仕へ申さんとなり。大殿の北政所にて、世を世とも思し召さで過ごさせ給ふ御心にも、子を思ふ道に迷ひぬれば、いぶせき事をも忘られて、あさましげなる片端人に交わつて、一千日が間朝夕宮仕へ申さんと仰せらるるこそ、まことにあはれに思し召せ。二つには、大宮の橋殿より、八王子の御社まで、回廊造つて参らせんとなり。三千の大衆、雨る(ふる)にも晴る(てる)にも社参の時、いたはしう覚ゆるに、回廊造られたらんは、いかにめでたからん。

三つには、八王子の御社にて、法華問答講毎日退転なく行はすべしとなり。この立願どもは、何れも疎かならねども、せめては上二つは、さなくともありなん。法華問答講こそ、一定(いちじょう)あらまほしうは思し召せ。但し今度の訴訟は、無下に安かりぬべき事にてありつるを、御裁許なくして、神人(じにん)・宮仕(みやじ)射殺され、衆徒多く疵を蒙つて、泣く泣く参りて訴へ申すが、余りに心憂ければ、いかならん世に忘るべしとも思し召さず。その上彼等に当る所の矢は、即ち和光垂跡(わこうすいぜき)の御膚(おんはだへ)に立つたるなり。実虚(まことそらごと)はこれを見よ』とて、肩脱ぎたるを見れば、左の脇の下、大きなるかはらけの口程うげのいてぞありける。

『これが余りに心憂ければ、いかに申すとも始終の事は叶ふまじ。法華問答講一定あるべくば、三年(みとせ)が命を延べて奉らん。それを不足に思し召さば、力及ばず』とて、山王あがらせ給ひけり。母上、この御立願の御事、人にも語らせ給はねば、誰洩しぬらんと、少しも疑ふ方もましまさず。御心の中の事どもを、ありのままに御託宣ありければ、いよいよ心肝にそうて、殊に尊く思し召し、『たとひ一日片時(へんし)と候ふとも、あり難うこそ候ふべきに、まして三年が命を延べて賜はらんと仰せらるるこそ、まことにあり難うは候へ』とて、御涙を抑へて御下向ありけり。その後紀伊国に殿下の領、田中の庄といふ所を、永代八王子へ寄進せらる。されば今の世に至るまで、八王子の御社にて、法華問答講毎日退転なしとぞ承る。

かかりし程に、後二条の関白殿、御病軽ませ給ひて、もとの如くにならせ給ふ。上下喜びあはれし程に、三年の過ぐるは夢なれや、永長二年になりにけり。六月二十一日、又後二条の関白殿、御髪(おんぐし)のきはに、あしき御瘡(おんかさ)出でさせ給ひて、うち臥させ給ひしが、同じき二十七日、御年三十八にて、終に隠れさせ給ひぬ。御心の猛さ(たけさ)、理の強さ、さしもゆゆしうおはせしかども、まめやかに事の急にもなりぬれば、御命を惜しませ給ひけり。まことに惜しかるべし。四十にだに満たせ給はで、大殿に先立たせ給ふこそ悲しけれ。必ず父を先立つべしと云ふ事はなけれども、生死の掟に随ふ習ひ、萬徳円満(まんどくえんまん)の世尊、十地究竟(じゅうじくきょう)の大士(だいじ)たちも、力及ばせ給はぬ次第なり。慈悲具足の山王、利物(りもつ)の方便にてましませば、御咎めなかるべしとも覚えず。

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[現代語訳・意訳]

まず、神に対する捧げ物として出されたのは、芝田楽の百番、百番の一つ、競馬、流鏑馬、相撲をそれぞれ百番、仁王経、薬師経の読経をそれぞれ百回、百座の仁王講、薬師講を開催した。更に小さな薬師如来像を百体造り、人間と同じくらいの大きさの薬師如来を一体造り、更に釈迦や阿弥陀の像を造って供養をした。またその御心中には三つの願いごとを持っていた。人の心の中のことは、外部から知ることはできないが、それと何よりも不思議なことは、七日目の満願の夜に八王子の御社に数多く来ている参詣人の中に陸奥からはるばる上洛してきた童巫女が、夜中に突然死んでしまったことだった。遥かに離れた所で生き返るように祈っていると、やがて立ち上がって舞い出した。人々は不思議な思いでその舞を見ていた。

半刻ほど舞った後に、山王権現がこの巫女に憑依して、さまざまなご宣託を告げるという恐ろしい状況になった。『お前たち、よく聞いておけ。関白殿の母上がこの七日間にわたり我が前に参篭されていた。御立願は三つある、その一つは関白を病気から救って欲しいということだ。もし救って下さるのであれば、御殿の中に住み着いている不具者(身体障害者)の中に交じって、一千日の間、朝夕となく神社に奉仕致します。関白殿の母として何の不自由もなく過ごされてきた方の御心も、子供を思う気持ちに迷わされていたのであり、見苦しいことなども気にせず、身分の卑しい者と一緒になって一千日もの間、神社にお仕えすると言われたことは、本当に可哀想なことのように思われた。二つ目の願いごとは、大宮の橋殿から八王子の御社まで回廊を造りたいということだ。三千人の大衆が、雨の降る日も太陽の照りつける時も神社に参っているのは気の毒だと思っている、雨・日光を遮ることができる回廊を造ればどんなに役立つだろうか。

三つ目は、八王子の社殿で法華経の問答講を毎日中断することなく行いたいということである。この三つの願いごとは、どれも簡単なものではないが、せめて最初の二つは何とかなりそうではある。法華問答講こそ、集中して何とかしたいと思わせられる問題だ。しかし、今回の訴訟はそう簡単に安心できるようなことではなかった。朝廷の御裁許がないまま神人・宮司が弓矢で射殺されて、また多数の僧侶が怪我をして傷つき、泣く泣く参って訴えてきたものだが、余りに心が鬱々としているので、どれだけ世の中が変わっても忘れられそうにないと思われる。その上、彼らに当たった矢は、衆生救済をする和光垂迹の神のお肌に突き刺さったのと同じだという。本当か嘘かこれを見よ。』と言って、肩を脱ぐと左の脇の下に、大きな盃の口ほどに肉がえぐられていた。

『この傷口があまりにも痛く苦しいので、どんなにお願いされても、全ての願いごと叶えることはできない。法華問答講を必死に実現するならば、三年間だけ命を延ばして差しあげよう。それが不足というならば、私の力はもう及ばない。』と言うと、巫女に憑依していた山王権現は消えた。御母堂はこの神仏への立願のことを、誰にも言っていなかったが、一体誰が私の願いを漏らしたのかなどと疑うことはなかった。自分の心中にあることを、そのまま御宣託されたので、ますます深く心に感じてとてもありがたいと思い、『たとえわずか一日でも命を延ばしてもらえたらありがたいものだと思っていたのに、三年も延ばしてくれるというのは、本当にありがたいと思います。』と、涙を抑えながら下山された。その後、関白のご領地だった紀伊国の田中荘を八王子権現に永代寄進された。それ以来、今まで八王子の社で法華問答講が中断されることがなく行われ続けていると聞いている。

そうこうしている内、後二条関白・藤原師通の御病状は軽くなって、前のように元気になられ、みんなが共に喜び合っている間に、三年間は夢のようにして過ぎてゆき、永長二年となった。六月二十一日、また後二条関白・藤原師通の髪の生え際に悪性の腫れ物(がん・腫瘍)ができて床に臥せたが、同月二十七日に三十八歳でお亡くなりになられた。気性が激しいが、理性の強さがあり、非常に立派な方であったが、急激な体調の悪化だったので、本人もそのお命を惜しいとお思いになった。本当に惜しまれることであった。四十歳にもならず、父上を残して先立たれるというのは悲しいことである。父が必ず先に亡くなると言うわけではないが、生死の定めに従うのは当然であり、万徳円満の世尊、十地究竟の菩薩でもまたその力が及ばなかった。慈悲深い日吉権現は人々に利益を与えてくれるのだが、時に人々を咎めることもある。

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