『平家物語』の原文・現代語訳31:若大衆・悪僧どもは~

13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『若大衆・悪僧どもは~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

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『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

[古文・原文]

御輿振の事(続き)

若大衆(わかだいしゅ)・悪僧どもは、「何でふ其の儀あるべき。ただこの陣より神輿(しんよ)を入れ奉れや」と、云ふやから多かりけれども、ここに老僧の中に、三塔一の僉議者(せんぎしゃ)と聞えし摂津の竪者(りっしゃ)豪運(ごううん)、進み出でて申しけるは、「この儀尤もさ云はれたり。我等神輿を先立て参らせて訴訟を致さば、大勢の中を打ち破りてこそ、後代の聞えもあらんずれ。

なかんづく、この頼政の卿は、六孫王(ろくそんおう)より以来(このかた)、源氏嫡々の正統、弓矢を取つても未だその不覚を聞かず。凡は武芸にも限らず、歌道にもまた優れたる男なり。一年近衛の院御在位の御時、当座の御会のありしに、深山の花といふ題を出されたりけるに、人々みな詠みわづらはれたりしを、この頼政の卿、

深山木(みやまぎ)の その梢とも 見えざりし 桜は花に あらはれにけり

といふ名歌仕つて(つかまつって)、御感(ぎょかん)に預かる程のやさ男に、いかが、時に臨んで情なう恥辱をば与ふべき。ただ神輿かき返し奉れや」と僉議したりければ、数千人の大衆、先陣より後陣まで、皆「もつとももつとも」とぞ同じける。

さて神輿かき返し奉り、東の陣頭待賢門より入れ奉らんとしけるに、狼藉忽ち(たちまち)に出で来て、武士ども散々に射奉る。十禅師(じゅうぜんじ)の御輿にも、矢どもあまた射立てけり。神人・宮仕射殺され、衆徒多く疵(きず)を被つて(こうむって)、喚き叫ぶ声は梵天までも聞え、堅牢地神(けんろうじじん)も驚き給ふらんとぞ覚えける。大衆、神輿をば陣頭に振り捨て奉り、泣く泣く本山へぞ帰り登りける。

[現代語訳・意訳]

御輿振の事(続き)

若い僧や悪僧たちは、「どうしてそのような理屈が通用などするか。早くこの陣から無理にでも神輿を入れてしまえ」などと言っている連中が多かったのですが、ここに老僧の中で、比叡山三塔一の雄弁家と言われる摂津の堅者豪運が進み出て申すには、「源三位殿の申し入れ状はもっともなことだ。我々は神輿を担ぎ出して訴訟を起こしたのだから、大勢で固められた警護を打ち破ってこそ、後世の評判も良くなるだろう。

特に、この源頼政の卿は六孫王(源経基)より今に連なる源氏の嫡流の正統であり、弓矢の道において不覚を取ったということを聞いたことがない。また武芸だけでなく、歌道にも優れた人物である。先年、近衛院が御在位の頃に即興の歌会が開かれて、『深山の花』という題が出されたのだが、皆がなかなか詠むことができず悩んでいた時に、この頼政卿は、

深山木の その梢とも 見えざりし 桜は花に あらはれにけり

という名歌をお詠みになって、近衛院も感心なさった程の風流にも優れた男で、このような時に、どうして恥辱を与えることが出来るだろうか。今回は神輿を戻すべきである」と、皆に訴えかけたところ、数千人の衆徒は先陣から後陣までみんなが「もっともだ、もっともだ」と同調しました。

そこでその手薄な門から神輿は引き返すことになり、東の陣頭の待賢門より入ろうとしましたが、すぐに乱暴な武士たちが出てきて、衆徒に向けて散々に矢を射かけ、十禅師の神輿にも沢山の矢が突き刺さりました。神官、宮司も殺されて、衆徒も多数が怪我をしてしまい、呻き声・叫び声が凡天にまで聞こえるほどで、堅牢地神(大地の神)も驚かれたのではないかと思います。衆徒は神輿を陣頭に放置したままで、泣く泣く本山へと帰っていきました。

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